ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月9日

東慶寺風景(吉屋信子)


うっかり飛ばしていた。
自伝的女流文壇史」には、「美人伝の一人」の前に「東慶寺風景 ささき・ふさと私」があったのだった。
「美人伝の一人」を読む前に「百花繚乱 呵呵大笑」を読み、たいそう楽しんでしまったせいでもあるけれど、忘れてしまうほどに、印象が薄かったということでもある。
ささき・ふさという人を私がしらないし、書かれ方も、印象が残らなかった。いや、ゆいいつ、印象に残った場面があるが、それは追って・・・。

というのも、例えば小見出しを拾ってみれば、「縁切寺の三つの墓」「ふささんと有島武郎氏」「芥川龍之介氏と佐佐木夫妻」とはじまり、すなわちささき・ふさは誰かとセットにしてしか語られていないのだ。
「縁切寺の三つの墓」とは真杉静枝田村俊子とささき・ふさの墓であり、単純に言ってしまえば、それらが同じ寺にあるというだけの話しだ。かといって、そこが縁切寺であることが、ささき・ふさの人生に関係しているだろうか? 無理矢理それに結びつけるように、次の「ふささんと有島武郎氏」の冒頭で、
 ふささんの苗字は二度変った。生家の長岡家から十七歳ちがうお姉さんの婚家大橋家に養女に貰われて大橋房子となり、次に結婚で佐佐木姓に変った。
と書くが、それは、ほとんどなにほどのこともない。生家が名家であったことがわずかにそれに続くに過ぎない。そしてその名家の出であることの素っ気なさが、これまでの吉屋信子の書き方と対をなしている。

そして、「ふささんと有島武郎氏」だが、ここで語られているのは、文壇的にほぼ同期であった吉屋信子とささき・ふさだが、ささき・ふさに有島武郎を紹介されたというだけであり、その場の話も、むしろ有島武郎こそ語られていた。
 有島氏は美しい洗練されたふささんと、色の黒い田舎女学生めいたわたくしの二人のものを書く若い女性をもてなそうとされてか――
 「手品をひとつおめにかけましょう」
と卓上の灰皿のふちからマッチを取ると幾本かのマッチの軸を指先にはさんで、
 「ね、よく数えて見て置いて下さい」
 そのマッチの軸の幾本かが、手品でみごとに数がふえるというのだった。
 わたくしは有名な力作『或る女』や『惜しみなく愛は奪ふ』の作家がわたくしたちに手品をして見せられる態度にちょっと感動してしまった。
そして次には、芥川龍之介なのだが、それは、ささき・ふさの夫君・佐佐木茂索について、芥川と親しく、芥川がふたりの媒酌人だったというのだから、ささき・ふさは置き去りだ。

そもそもささき・ふさが物静かな女性だったというのだから、それを象徴的に描いているということだろうか?

いや、こうした書き方だったからこそ、下のささき・ふさの科白が沁みるのかもしれない。
 わたくしが『おばあさん』を激賞して戦後の文壇への捲土重来を説いてやまなかったが、御当人は沈鬱だった。そしてハンドバックから一葉の写真を出してわたくしに示し、
 「伊東にいた頃がいちばん愉しかったのよ」
 その写真は伊東疎開の家の窓辺に立つ佐佐木夫妻の睦まじい姿だった。ふささんにとっては夫君との生活が、文筆上の功名よりもはるかに大切なものだった。それだけに至れり尽せりの(奥さま)だったと思う。夜もたけ、夫君は社用で御旅行中とあってわが家に泊られて、翌日の午後、鎌倉駅へわたくしは見送った。ふささんが黒白のチェックの秋の外套の背を向けてホームへあがる階段へさしかかる時、うしろを振り向いて青白いほどこまやかな皮膚の顔がほろさびしい微笑を浮かべた……。
「おばあさん」という成果をなす才能を持ちながら、文学より家庭を大切にしたささき・ふさに、吉屋信子は、複雑な感情をもっていたのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿