ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月5日

小魚の心(吉屋信子)

まだまだ続く「自伝的女流文壇史」。
ようするに、楽しんでいる。


とはいえ、またしても知らない名まえ真杉静枝で、「小魚の心 真杉静枝と私」で、やっぱり書かれた人物の作品のタイトルをそのまま章のタイトルにしている。真杉静枝の作品に「小魚の心」という短編集があるという。この章タイトルは、それが真杉静枝を表すのに相応しい言葉であると同時に、そのタイトルはそれほど知られていない、という吉屋信子の認識だろう。
 一九五三年の世界ペンクラブ大会がダブリンで開かれる時、真杉さんは日本代表の一人として出席することになった。その直前に彼女は自伝的の小説を発表した。それは武者小路氏との恋愛のことの起りからを語ったもので(われは馬鹿者なり、一人の美しき女性をいかにしても忘れ得ぬなり)というような武者小路氏の恋文が送られたところが出たりした。真杉さんは昭和十六年頃に『小魚の心』という可憐な題の短篇集を刊行したが、そのなかにも武者小路氏をモデルにしてじぶんたちの返らぬ日を優しい女心で語る数篇があったが、まったくそれは(小魚の心)のような愛すべき哀憐きわまりなき作品だった。ところがこんどの自伝的長篇には小魚の心ならぬ牝豹のごとくやや猛り立つ女心とそしてラフなナルシス的傾向が露出していて、武者小路氏がもし読まれたらさすがに愉快ならぬ思いをされるかも知れぬと、私はひとごとながらヒヤヒヤした――真杉さんがこうしたかつての有名な恋愛事件をもっと大切に扱って何か匂いのこもった優艶な作品に醸造して欲しかったと惜しまれた。その作品はどうやら(やぶれかぶれ)のおもむきだった。
吉屋信子が、真杉静枝の作品について語った場所は、ほかにない。


そして、ここに書かれたことが、この一篇のすべてと言ってもよい。文学者であるより、なにより、男性遍歴のひとだった真杉静枝が、その遍歴によって、変わっていった、その変貌。
 しかもそういうことを得意げに無邪気な態度で言い放つ真杉さんはむかしの(可愛い女)から(無邪気な娼婦型)に移動したと思えた。
いや、だが、上に引用した段落が、この章のすべてを語っているというのは、言い過ぎだ。真杉静枝の最期を水野仙子の最期と較べて見せる。このとき、真杉静枝の書き置きも引用している。この書き置きが、変わってしまった自分にたいする悔恨のようにも読ませるのが、吉屋信子の文章だったとも言えるかもしれない。

武者小路実篤からはじまる真杉静枝の男性遍歴が、だけど、Wikipediaの真杉静枝のページと見比べてみれば、欠けた名まえがあることに気づく。
いや、欠けているのはひとりではないが、これまでの章で、まるで約束のように毎回表れていた名まえが、よりによって欠けているのだ。そう菊池寛の名。
これを踏まえて顧みると、英雄好きの真杉、英雄を落としては悦に入るような真杉を書き連ねたなかに、下のとおりの、なんとも歯間にモノの挟まった口振りが見える。
 そのうち、彼女はこれは日本人の(資本の英雄)を得て、そのひとの出資のもとに『鏡』という娯楽的月刊誌を主宰した。宇野千代さんの『スタイル』が彼女の憧れであったろうか……。その頃のある日、私は競馬場で思いがけなく彼女にぱったり出会った。いそいそとそわそわと彼女は私に告げた。
 「そのうち私も馬を持つわ、そして(カガミ)と名づけて走らせるのよ」
はたして、これらの文章はいったいどこに掲載されたものだったのだろう?

ところで、もう一度、真杉静枝と文学に目を向けるなら・・・。
 その通夜の席でひそやかな声で人の語るのによれば、真杉さんの生命を奪った癌は、真杉さんが以前、婦人特有の癌(乳癌以外)を発して手術の際、医師は将来の再発や転移を予防する為に大きな切除が必要と言ったのに、彼女は女のセックスの生命線を失うのを哀しんでいのちに代えてもと拒絶した結果だと聞いた。
 水野仙子が自然主義文学をもって信奉して死の枕頭で牧師の洗礼を拒んだ悲壮さと同じに真杉さんは死をもっても女の性を保とうとした性の殉教者だった。
それでも、吉屋信子は、これを文壇史と呼ぶのだろうか? 水野仙子と対比するほどに、真杉静枝は、文学からは遠く離れた存在になっていくばかりだ。およそ、それこそが、 吉屋信子のいわんとするところだったのだろう。

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