まさかこのブログがはじまってまもなく吉屋信子が書いたものを取り上げるとは、私自身、思ってもみなかったし、まして、小説ではなくエッセイ「自伝的女流文壇史
」の中から、記事を書くとも思っていなかったけれど、吉屋信子って、そういえば、「吉屋信子集 生霊―文豪怪談傑作選
」などでも、なかなか癖のある人だったことを思い出してしまったから、ちょっと書いておこう。
いや、吉屋信子といえば、「徳川秀忠の妻
」の作者でもあるわけだから、NHKの大河ドラマで「お江」がはじまる矢先のことなら、むしろタイムリーかもしれない。
というわけで、吉屋信子の「自伝的女流文壇史」の第一章「上海から帰らぬ人 田村俊子と私」だ。
というわけで、吉屋信子の「自伝的女流文壇史」の第一章「上海から帰らぬ人 田村俊子と私」だ。
この前の記事にも書いたけれど、私は講談社文芸文庫に入っている「木乃伊の口紅・破壊する前
ところがここには、瀬戸内晴美が書いた、田村俊子と吉屋信子の邂逅について、ちゃんと触れられていた。
ところがわたくしは――昨年の『文学者』の誌上に連載中の瀬戸内晴美さんのみごとな伝記作品『田村俊子』の第二篇に、はからずもこの軽井沢での俊子女史とわたくしのことが出ているのにぶつかって驚かされた。ここで、田村俊子だけが敬称を省かれている点については、冒頭部分で、わざわざ敬称略の記述があるが、さて、吉屋信子は、この文章を、時系列に沿って書かれた自分たちの関係のなかで、たしかにふたりが軽井沢で会ったその話のすぐあとに書いているのだ。ここに書かれているのは、ふたつの時間だ。たしかに俊子あるいはその友人山原さんにとっての、信子と俊子の邂逅の時間であるが、信子にとってそれをしったのは、それからずいぶん時を経たのちのことである。
それは俊子の渡米前からの愛読者、憧憬者として帰国後も心を通い合わせていた山原さんが伝える俊子の心情の陰影を瀬戸内さんが書いた一部分である……つまり――その夏軽井沢での散歩の途上わたくしがファンの少女たちに囲まれるのを見た俊子は、不機嫌な表情で道路の反対側へ離れてわたくしの方を横目でちらちら見たり、後でわたくしのところに招かれたあとも押しかけていたファンからのプレゼントを横目で見て、「ふん」と不興な顔をして――ここからあと瀬戸内さんの表現に従えば(たかが少女小説作家がという気持と現実に目撃する人気に嫉妬が押えきれないふうであった。今自分に失われた文筆上の盛名や人気をやはり内心非常に気にしている)のが山原さんにはっきりとわかったというのだった。
すなわち、信子は、そのときの俊子の心情などしらなかった。
そうとはまったく夢にも知らぬわたくしはいい気なもので、じぶんが文学娘の頃そのひとが文壇を去って米国に渡ったのを知った時の愛惜の思いを忘れず、心から大先輩としての尊敬の念を示して食事に招いたりしたのだった。さてさて、これは素直に信じてよいものだろうか?
信子は、瀬戸内晴美の文章を引く以前に、書いている。
(あっ、このひとにも帰る日があったのか!)わたくしは十八年前神田の女子青年会館で同じこのひとの渡米の記事にいっときのロマンチックな感傷に打たれたあの日をありありと思い浮かべると、せっかく彼女に捧げたわたくしのうら若き日の幻想を裏切って、おめおめとそのひとがいったん棄てた文壇と故国に帰ってしまったのが惜しまれたとは、まことに他人に対して身勝手な残酷な言い方ではあるが……わたくしのいつまでも精神発育不全の少女趣味によれば――すぐれた作品を残してその才能を他からは惜しまれつつ(自身は自らの才能の限界を知って)三十代の女の美しさを保つうちに故国を去って異郷に身を隠してついに帰らず……永遠に幻の女流作家としてとかなんとか描いた一つの幻想は、こうして破れ去ったのは笑止千万であった。誰がわたくしのたわけたそんな趣味で生れた国へ帰りたいのを我慢するばかがいよう!語尾のエクスクラメーション・マークがことさらに、「わたくし(田村俊子)」は卑下しながら、やはり田村俊子への恨み言を書かずにいなかった。
そして、かつて作家業と女優業を何度も往還した挙句に渡米、そして、すでに文名は消えた頃になって帰ってきてもなお、横柄にして贅沢が抜けぬままに借金を申し込んでくる田村俊子という女性にたいする文章になっていく。
少女作家ごときと蔑みながら、わざわざ「わたくし」のもとを訪れて、借金を頼み、さらに、それを返す素振りを見せもせぬまま、さらに、菊池寛への借金の使いを仰せつかる。菊池に断られて、俊子を訪れれば、高級アパートで鮨を食べる俊子を、「わたくし」は書くのだ。だが、このとき、「わたくし」は、俊子が「わたくし」をたかが少女作家ごときと蔑んでいたことをしらなかったはずなのだが、この文章を読む読者は、それを知っている。「わたくし」は、俊子の文壇上の後輩として、行動しているが、俊子にしてみれば、後輩ではなかったらしく、私たち(読者)は思っている。そして、俊子のその素振りもじつに横柄だ。
わたくしは思いがけぬ彼女の来訪を喜び、この夏軽井沢で招いたことに親しみを感じてひょっこり訪れて来られたのかと大歓迎した。その珍客は客間にゆったりと腰かけ、茶菓を喫したのち、この人のゆったりして粘り気のある語調で、「五百円貸して頂戴」
その夕方、わたくしは自作の映画化の試写会に出るため階上の寝室で外出の支度中の時だった。そんならながくお邪魔しないからと言って客間からいきなり階上にあがって来て寝室の傍の絨毯の上にべたりと坐り、こうしたなんとも意地の悪い書き方をする吉屋信子は、最後の最後に書く。
「菊池さんにお金を借りたいから頼んで頂戴」
わたくしは先輩の野上弥生子夫人を初めとして同じ頃の女流作家の誰彼に、またあとから続出の若い女流作家からも必ず何かよいもの、じぶんにないものを受け感じて自身にプラスさせていると感謝している。だのに、この田村俊子氏とは……まことに心さびしき儚い結果だったと思う。田村俊子の話を「自伝的女流文壇史」という一冊の本の冒頭に置くこと、これが、吉屋信子の、なんとも皮肉な身振りに思えてしまう。
ところで、田村俊子が日本に帰ってきてから持った妻子持ちの情人が、「そのひとは彼女が帰国直後の談話で日本で好きな作家としてその名をあげた若い女流作家の夫君」であるならば、その女流作家とは窪川稲子、すなわち佐多稲子

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