ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月10日

虐殺器官(伊藤計劃)

伊藤計劃の「虐殺器官」、400Pという長篇だが、一気に読んでしまった。

小説として見たとき、例えば、夢のなかの描写などは、夢としての奇抜さもふくめて面白いにせよ、やたら形而上学的な会話が説明的な点などが、いかにもSFだなぁという物足りなさがあるし、物語を見たときにも、追跡劇のなかで、追い詰めては逃げられるくり返しの在りようにも真新しさはない。
だけど、ここで語られることのリアリティは、非常に刺激的だ。

例えば、9.11以降の、個人情報と情報化社会、ナノテクノロジーや心理学と生命倫理、テロと地域紛争、そうした今現在の社会が直面しつつある問題が、たがいに反響しあって私たちの社会たりえているのであり、その相互の反響こそ社会そのものであることを教えられるようでもあった。
ひとつひとつの問題を見ても、解決は見えない。いや、そもそも解答などは、失われているのが現代でもある。テロをおこなうモノが、彼らなりの正当性をもっていることを私たちはすでに知っている。悪のために悪を行うショッカーの存在を私たちは信じていない。それは相対的に正義の否定だ。とはいえ、それもすでに言い古された論理であることも否めず、今さらそんなことを言われても、ちょっと鼻白む。それをいかに回避して、なおリアリティを確保するか、それがこの小説の要だっただろうが、成功していると思えた、

例えば、交通事故で脳死状態の母の生命維持装置を切ることに同意した「ぼく」は、母殺しとして、トラウマ化しているわけだが、それだけであれば、やはり母殺しのトラウマなんて、今さらなぁと思わずにいられないのに、そのとき、これがSFであれば、脳死もまた、脳の部分的な死という状況のなかで、はたして、どれほどの脳が機能していれば意識がありえるのかといった問題が語られる。

このとき、医師による、ことばの問題なのだ、といった説明や、それに先立つ言語学者との会話、そして、なによりこの事件の謎、そのものまで、言語の問題である点、そして心理カウンセリングの在りようなど、ここでは人文科学に属するはずのものが、ナノテクノロジーなどの自然科学に属するもの同様に、たしかに社会的に機能しており、それこそ、社会をひとつの個体ととらえたときの、それぞれの「器官」にも見えてくる。「意識」を器官なのだというルツィアの科白同様に、あるいは、まさに虐殺器官同様に、例えば「ぼく」にしてもジョン・ポールにしても、すべてが器官として機能している。

その世界観、世界認識が、興味深い小説だった。

とはいえ、およそ時系列に沿って進行するなかで、母の死を語る場面のなか(P.195)に、「自殺ではあるけれど戦友だってちゃあんと失った。」とあるのが、どうにも腑に落ちない。戦友アレックスが自殺したのは、「ぼく」の母が死んでから二年後のはずだが。

しかし、ひさしぶりにエンタメを読むと、漢字にカタカナとかアルファベットのルビが、当初、うざくてうざくて、あれはしんどかった。


さらに追記

じつは、今書こうと思っている小説のアイデアに、微妙に被っている気がして、ちょっと困惑もしているのだ。方向性が似ているというか、やりたいことが似ているように思える。それはおこがましいけれど、だけど「『虐殺器官』を読んだから、こうなった」と思われそうな気はする。それは、「虐殺器官」が、現代を象徴する多くを含んでいるということなのかもしれないが、私自身には「器官」ということばやイメージはなかったながら、考えてみれば、私のやりたいことは、ジジェクを読んだことがなければそれとは関係なく、「身体なき器官」かな、などとも思ってしまったのだった。

いっそのこと、この「虐殺器官」を読みながら感じていたわたくしごとを、書き加えておくと、上にもちょっと触れたとおり、この小説のなかで語り手の「ぼく」は、ほとんど脳死状態の母親の生命維持の継続について医師に決断を求められ、それを断ったことをトラウマとしているが、昨年、父を高齢者施設に入れた私は、その際に、もしもの場合について、回答を求められた。もしもの場合、生命維持を行うか、すくなくとも、あなたがここへ来るまではもたせるか、といった問いを受けたのだ。
私は困ってしまった。正直に、そう言った。弟も同席していたが、弟も、なにも言わない。私は、すぐには答えられないと言うをこめたつもりだったが、質問者は、頷くだけで、答えを待つ素振り。おそらくは、先に延ばしても答えはなかなか得られなかったり、あるいはその間にその「もしもの場合」が起きてしまうかもしれない、ということなのだろう。
かくして、その場で私は決断せざるを得なかった。
だが、ここでも私は、言い訳を用意できた。すなわち前例をしっていたのだ。私の友人が、その母の「もしもの場合」に遭遇したが、その時、彼女の兄は遠くフランスに住んでいて、もちろんその兄にも危急を報せたが、彼は自分が行くまでなんとか延命してくれと頼んだと言う。だが、そうして延命することに堪えかねたと彼女は言っていた。
私は彼女の意見を、自分に適用することで、無理に生かすことはない、自然にまかせてくれと、それでいいかと弟にも問うと弟も頷いた。答えは決まった。
そう、ひとりでは決めかねた。最終決定をくだしたのは私ではあるけれど、誰かの言葉を参照し、弟の許諾を得て、ようやく私は答えられたのだった。
もし、これで父の死に目に会い損ねたら、私は後悔するだろうか? いや、父を亡くせば、それ以前に多くの後悔が私を苛む。今からそれがわかっていながら、そのように生活している。後悔先に立たずというが、そうした言葉があるほどに、あるいは「親孝行、したいときには親はなし」などといった常套句があるほどに、後悔を先送りして、後悔を先取りして、後悔することをしっている。

いや、話がズレた。

「虐殺器官」という小説のなかで、他者を殺すことを仕事とし、日常的に死と付き合っている人間の、身近な者の死の特別性というのは、どうだったろうか? げんに「ぼく」はルツィアによって許され、それ以降母の夢を語らなくなる。それなのに、そのあとになって、それを特別なこととして語る。いや、それこそが、正しいのかもしれない。そう、特別なことでありながら、特別なことではなくなったから、特別なこととして語りえること。見たいものだけを見る(見える)のが人間であるならば、語りえるものと語りえないものの境界とは、地続きで、語るとは、その語り得なさを超えることなのかもしれない。
そう、この小説は、語り、言葉が問題の小説だった。
だからこそ、登場人物たちは、饒舌に語り合う。

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