正直に言えば、ドイツロマン派には、あまり興味を覚えずにいた。上記の本も、それについて書かれた論文が、それと同時掲載されているという形式の面白さがあって、読んだ面が強い。いわば、種村季弘
なのだけれど、先般本屋をフラフラしていたら、この本
そんなわけだから、それほど期待していたわけではない。期待していなかったのだけど、読んでみると、たいそう面白かった。といいつつ、途中で寝落ちしたりもしているのだけれど、読み終えるのが惜しくなって、第十一夜を読んだあと、最後の第十二夜を読むまで、しばらく本を閉じてしまったほどだ。
そして、今になって、それなら併載作もあるこっち
ただし、私がホフマンに出会った最初が、フロイトの論文とともに読むという体験だったという事情もあるかもしれないが、ファンタジーということもあり、どうしても、象徴的な部分に眼がいってしまった。
物語を簡単に要約するなら、大学生アンゼルムスが、蛇に恋をするが、アンゼルムスに恋する教頭パウルマンの娘ヴェロニカと魔女ラウエリンの妨害に合いながら、その蛇の父、文書管理役にして火の精リントホルストに助けられつつ、愛を貫くことで、ふたりで楽園に至るファンタジー小説、で、よいだろうか?
だが、この物語で、アンゼルムスは、だれより先に魔女に出会っている。
昇天祭の午後、ちょうど三時のことだった。ドレスデンの市中で、一人の若い男が、黒門(シュヴァルツェス・トーア)を走り抜けて、みにくい老婆が売っているりんごや菓子の入ったかごのなかへ一直線にとびこんでいったのである。さいわい踏みつぶされずにすんだ売り物はあたりへとびちり、このあわて者がばらまいてくれた獲物を街のわんぱくたちが喚声をあげて取り合った。老婆の悲鳴を聞いて、近くでお菓子やブランデーの店を出していたおばさん連中が、店をそっちのけにして集まってきて、その若い男を取り囲み、悪口雑言をあびせかけた。男は怒りと恥ずかしさのあまり声も出せず、小さな、あまりふくらんでいない財布をだまってさしだすと、老婆は待ちかまえていたようにそれをつかんで、すばやくふところにつっこんだ。そこで彼をかたく囲んでいた人の輪が解けた。さっと逃げ出す若い男のうしろから、しかし老婆の声がかかった。これが書き出しだ。ここにはまだ誰も名をもっていないが、言うまでもなく、若い男がアンゼルムスであり、老婆がラウエリンだけれど、このとき、私はすでにアンゼルムスが恋におちる相手が蛇だと書いていれば、物語の動因がりんごであるということが、まさに象徴的に思えないだろうか? まして、それは昇天祭のことだというなら、キリスト教的なもの、あるいは聖書的なものを思い起こさずにはいられまい。
「そうかい、逃げるかい――逃げればいいさ、悪魔の子め――いずれクリスタルのなかにとじこめられるさ――ガラスのなかへな」
そして、そうした象徴性は、書(語)かれたものは実現される、といった法則性も、容易に想像せられ、この若い男(アンゼルムス)がやがてクリスタル(ガラス)のなかに閉じ込められるだろうというのも、いわば納得しながら読むことになる。物語のなかで、呪いはかならず実現される。そして、そうした法則性は、かならずしも呪いにかぎったことではない。例えば、全体の半ばを過ぎたころにあるリントホルストの下の科白もまた、それを読んだときに、ああ、アンゼルムスはインクのしみという失態をやがて犯すに違いないと、読者は予感してしまう。
「アンゼルムスさん」とリンクホルストは言った。「あなたはこれまでにもうたくさんの原稿を手速くしかも正確に筆写してくださったので、わたしは大いに満足しておりますよ。あなたはわたしの信用を得ましたよ。しかし、いちばん重要な仕事がまだ残っているんです。これはですね、わたしがこの部屋に保管しているいくつかの書類を筆写してもらうことなんです。それはまた特殊な文字で書かれていますが、それを模写してもらうんです。しかもこの書類は持ち出すことができないので、どうしてもこの場で筆写していただかなくてはならんのです。――したがってこれからはこの部屋で仕事をしていただくことになります。しかし、くれぐれも慎重に、用心してやっていただきたい。書き損じをしたり、よもやとは思いますが、墨インクのしみなどを原稿につけることにでもなったらあなたは不幸な目に遭いますぞ」先回りしていってしまえば、原稿に墨インクのしみをつけて蒙る不幸な目が、クリスタル(ガラス)の壜に閉じ込められるということなのだが、こうした約束事でなりたっているのが、ファンタジーの宿命のようにも思えてくる。
約束事で縛られ、これから起きる出来事が先にわかってしまっている物語など、面白いわけがない。
そこで、もう一度、書き出しを見てみる。
最初の段落だけを見るなら、見事なまでにファンタジーらしからぬ、そのうえで、動きのある日常ではないだろうか。そして、にわとこの木の下で、妙なる(クリスタルの鈴)音とともに、濃い青の瞳を持つ小蛇と出会う。
それでもまだ、物語は日常をなかなか離れていかない。酔っ払いと間違われ、教頭に狂気を疑われ、教頭の娘ヴェロニカに出会えば、そこでも恋らしきものが描かれるのだ。
不思議は、すこしずつ顕れる。
蛇と出会い、その声を聞くことは、むしろ恍惚として、それゆえに、アンゼルムス自身さえが妄想とも疑い、人間の女であるヴェロニカに魅かれもするのだが、書記役ヘーブラントの紹介で訪れたリントホルストの家のドアのノッカーがりんご売りの老婆の顔になってアンゼルムスにふたたび呪いの言葉を投げかけるあたりから、ただの美しいファンタジーではなくなりはじめる。
ところが、第三夜のはじまり方は、いきなりなにが起きてしまったのだろう? と思わずにいられない。ドレスデンの市中にいた私たちは、唐突に、異界に連れて行かれる。
霊が水面を見わたすと、水はゆれうごき、泡だつ波をたててどよめき、貪欲にのみくだそうと黒い口をあけている奈落へ轟音とともにおちこんでいった。花崗岩の岩塊は、勝どきをあげる勝利者のように、ぎざぎざにとがった頭を高くさしのべ、谷間を保護していたが、やがて太陽が出て、その母親らしいふところに谷間を抱きとり、熱い腕でするように太陽の光線によってつつみはぐくみ、暖めるのだった。それまで荒涼たる砂地のしたでまどろんでいたたくさんの植物の芽が、深い眠りからめざめ、母親と顔を合わせようと、緑の若葉や茎をのばした。そして、緑のゆりかごのなかでほほえんでいる幼児のように、花やつぼみのんかにはかわいらしい花が静かに眠っていた。やがてはその花々も、母親によびおこされて、母親がかれらをよろこばせようととりどりに色づけをしたたくさんの光でもって自分のからだを飾った。とこがその谷間のまんなかのあたりに黒々とした丘があった。それはちょうど人間の胸のように、もえるあこがれにあふれると、大きく波うつのだった。神話世界のようなこの書き出しこそ、異種婚譚としては、この小説にふさわしいようにさえ思えるほどに、まさにファンタジーだ。
そこへ奈落からうすもやが輪をえがきながらたちのぼり、それがひとかたまりになって大きな層をつくり、あえて刃向かう意気込みで母なる太陽の顔面をおおいかくそうとした。太陽は、しかしあらしをよびよせた。あらしはもやのなかへ突き進んでそれを吹き散らした。きよらかな太陽の光がふたたび黒い丘を照らしたとき、恍惚のきわまるなかで、すばらしい鬼百合が花をひらいた。母のやさしい接吻を受けようと、愛らしい唇のような美しい花びらをひらいたのである。
そのとき、ひかりかがやく人物がこの谷間に足をふみ入れた。それは青年フォスフォレスであった。この人物を見るなり百合は、熱烈な恋慕の情にかられて必死にたのんだ――
「どうかいつまでもわたしといっしょにいてください。美しいかた! わたしはあなたが好きです。あなたがわたしをすてたら、わたしは死んでしまいます」
だが、それゆえにこの小説の書き出しにはなりえなかった。ここは、神話的だ。すなわち異教的だ。この物語はおそらく、異教的であることを意識して書かれている。アンゼルムスが、愛しい小蛇の名ゼルペンティーナをひとりごちると、通りがかった男は言う。
「それはまたいやしい異教徒的な名まえだなあ」反キリスト教的に書かれた小説だからこそ、昇天祭の日のりんごと蛇で、物語がはじまったのではないだろうか? キリスト教的な象徴が相対化されていたのではないか?
いや、それよりもじつはこの小説、いやこの物語のなかで、その存在があまりにあやしげなのは、書記役ヘールブラントで、あたかもトリックスターとして機能している。この男が、アンゼルムスをさまざまなひとびとに引き合わせ、やがては、教頭の家に酒を持ち込んで、ドンチャン騒ぎさえお膳立てする。
ところでね、第八夜がよいのだよ。
ゼルペンティーナが、はじめてひとの姿になって現われる場面を引用して、この記事を終わろう。
「アンゼルムス、わたしのアンゼルムス」と、葉かげから風のようなささやきが聞こえてきた。すると、おお、ふしぎ! しゅろの木の幹をつたって緑色の蛇が身をくねらせておりてくる。
「ゼルペンティーナ! かわいいゼルペンティーナ!」
とアンゼルムスは歓喜のきわみで気もそぞろになってさけんだ。よく目をこらして見つめると、いつも心に思っているあの濃い青のひとみでもってほんとうに慕わしげに彼を見ながら彼にむかってただよってくるのは、あきらかに愛らしく美しい女の子のすがたであったからだ。しゅろの葉は垂れさがって伸びるようであった。いたるところで幹からはとげが生えていた。けれどもゼルペンティーナはからだをひねり、くねらせ、たくみにとげのあいだを抜けておりてきた。光彩陸離にかがやいてひるがえる着衣をからだにひきつけていたので、ほっそりとしたそのからだにぴったりとくっついたその服はしゅろの木のとがった葉先やとげなどにひっかかるようなことはなかった。彼女は彼とおなじ椅子に彼とならんで腰かけ、彼に腕を巻きつけて、ひしと抱きしめたので、彼は彼女の唇から洩れる吐息に触れ、彼女のからだのぴりぴりした熱を感じた。

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