「
女妖記
」の残り4篇を一気に読み終えてしまった。
読了の雑感から、この記事をはじめる。
「現実は小説よりも奇なり」という言葉がまかりとおっている。
もちろんそんなことはないのだけれど、例えば、「
黒縮緬の女」にせよ、この「濹東の女」にせよ、小説として見たとき、いかにもありそうな、お話で、それが西條八十という著名人が現実に体験した出来事だったという保障があればこそ読ませる、という意味でも、小説(創作)と現実の境界線は、それを読むものの意識に、ある種の差別化をもたらしている。
それは私小説という言葉にしても、たぶんにそうした差別化の恩恵に浴しているだろう。
そのうえで、私小説をふくむ小説が、まして、幻想小説などとの奇想の小説ではなく、現実世界を舞台とした小説が、現実を凌駕できるとしたなら、それは文章によるしかないはずだ。
いやところが、かならずしも、そうではない。
そもそも「現実は小説よりも奇なり」というとき、なにが奇なのかと問えば、そこにある出来事とその連鎖としての物語のことにほかなるまい。そもそもそこには、文章を読むという体験は捨て置かれている。
物語と出来事をいかに書くか、という点で、小説は現実の先鋭化であるといってもいいかもしれないが、さらに、ここに人物(人間)という小説(文章)のパーツを考えたとき、例えば、この本で「女妖」と呼ばれる女性たちの魅力は、いわば現実の側にあり、物語、出来事のものかもしれない。そして、それを語る「ぼく」あるいは西條八十は、その語りようにおいて、小説の側にありそうだけれど、やはり、それが西條八十であることとあいまって、やはり物語の側にもたぶんに関係している。
それは、例えば、これまでの諸篇でも、私たちがよくしっている名まえや、よくはしらなくても、かつて有名だった名まえがたびたび書かれ、そうした名まえにたいする興味すら引き起こしているとおりだ。
すなわち、「濹東の女」といえば、西條八十のサービス精神は、
永井荷風
を召喚せずにいない。いや、そもそもそのタイトルがすでに、永井荷風を連想させるように書いている。