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2011年1月3日

純徳院芙蓉清美大姉(吉屋信子)


吉屋信子「自伝的女流文壇史」の第3篇が、「純徳院芙蓉清美大姉 林芙美子と私」。

林芙美子といえば、今ではむしろ森光子の名まえで記憶されてしまっているかもしれない「放浪記」の作者なのだ、などとわかったように書き立てれば、「バカにするな!」とお叱りを受けるかもしれないが、じつを言えば、私は林芙美子の小説を読んだ記憶がない。なにかしら読んだんじゃなかったかな、とは思うものの、もし手に取ったとしても、読みかけてやめてしまったのではないだろうか。とにかく、記憶がない。もちろん、「放浪記」も。

それは、岡本かの子の小説を好む私なら当然ともいえる。
 岡本かの子が歌人から作家に転身して次から次へと絢爛たる大作発表の頃のある日、林さんは私の家で文学談をした折、「岡本さんのものはまるで七宝焼のように彩色過剰ですよ、だからわたしには心に沁みるところがないんですよ」と言った。そのはずであったろう。かの子の作品が大がかりの管弦交響曲なら、林さんの作品は一管の細き明笛か一茎の草笛に思いを託して泣くがごとくむせぶがごとく……ではなかったろうか。だが単にその相違ばかりではない、林さんは文壇の明星として輝くおのれに後よりせまるひとにつねにおびえていた傾向があったとも思える。彼女の口癖は「ジャーナリズムってほんとに薄情なんですからね。いつ棄てられるかちょっとも油断できませんよ」……私はこの言葉を何度彼女の口から聞かされたことか!
 と、吉屋信子も書いている。
そして、この段落の後半部分がまた林芙美子を語って、だが、その貪欲さ、あるいはいじきたなさと言ってもよいようなその林芙美子の生き様を、吉屋信子はことのほか愛していたらしいことも、そのエクスクラメーションマークだけでなく、全編の構成の中にさえ、顕れていて、これまで田村俊子岡本かの子を書いてきた筆とは、対照的にさえ見えてしまう。


なにより、まずそのタイトルが、林芙美子の戒名だ。そして、書き出しの段落は、ワンセンテンスのみ。曰く・・・
 林芙美子さんが急逝して今年(昭和三十六年)はもう十年になる。
昨日今日亡くなったわけでもなく、すでに十年がたっているなら、それは田村俊子にしても岡本かの子にしてもあまり変わりはなかったはずだし、その死に様を見るなら、田村俊子の様は誰にも負けず、げんに吉屋信子もその場面を、タイトルに形容している。ところが、林芙美子を語ろうとするとき、自分の言葉を持たずに、すでにある戒名をそのまま使う。それはあたかもその戒名を覚えているようでさえある。
そうしたすでに十年を経てもなお林芙美子の死を悼む身振りは、書き出しのワンセンテンスの段落に続くまたしてもワンセンテンスの段落を見ても、その不自然さのゆえに際立つだろう。
 彼女と私の交際は、下落合に棲んでいたことから始まる。
この一文を見れば、最初のセンテンスが不要であることは明らかだろう。ここからはじめても、まったく問題はないし、むしろ、なぜすでに一昔もまえの林芙美子の死を最初に書いたのか、首が傾げる。
これが、林芙美子にたいする吉屋信子の気持ちだったのだろう。林芙美子について語ろうとしたとき、林芙美子はもうこの世にいないことが、なによりはじめに、吉屋信子の心を占めたのだ。

そして、林芙美子が、いかに旺盛に、貪欲に、文学に対峙したか、大いに語るわけだが、真に文学に対峙したといい得るかといえば、むしろ功名心に長けた成金趣味に思えなくもない。
 幼時より九州地をさまよう行商人の娘として、ちがう土地々々の宿屋に転々と泊り「もの心つき初めてから家というものを持たなかった」という林さんがペン一本でわがものの家屋をつくり、そしてお母さんに黒い被衣を着せたり、満足思うべしである。
 それから間もなく林さんはよその赤ン坊を貰って養子とされた、その泰ちゃんが戦後学齢に達すると、学習院に入れた。戦後は宮内省の補助を離れて入学制度が変ったとはいえ、ともかく貴族子弟をまだ連想させるその学校に入れたことを驚いたひともいたが、それはあえて驚くに足りない。何故なら彼女は幼少から苦難の生立ちを述べた『思ひ出の記』のなかで「わたしはもしも自分に子供が生れることがあったら、こんどは思ひきりゼイタクな学校へやって、ゼイタクな思ひをさせてやりたいと思ふ位、自分の幼い日の苦しさを暗い厭なものにおもってをります」とはっきり書いている。
功名心であれ、成金趣味であれ、それが林芙美子の文学を昇華させるものとして機能したと吉屋信子には思えたのだろうし、だからこそ、吉屋信子は、林芙美子を愛したのだろう。

ところで、そうした吉屋信子の林芙美子にたいする見方は、じつははじめての出会いの場面に集約されているとも言える。
その後、文藝春秋社の忘年会で林芙美子が安来節を踊る話や、あるいはさらに陸軍従軍文士の紅一点でありながら、他の従軍文士を置き去りに、唯一漢口陥落に立ち合うといった、なんとも男勝りの活躍が語られるその前に、下の出会いがあるのだ。
 それで灯ともし頃となり夕食を呈した。林さんが愛酒家であることをその書くもので知っていた私はわが家で珍しき酒客としてお銚子や盃を出した。林さんはその盃を両手で捧げる恰好でそろりと口に近づけ、飲むというよりすするようにして、また間を置いてすする、お酒を貴重品扱いした飲み方だった。
 その酒の肴にわかめの白子ぼしをまぜた酢のものを添えると、林さんはそれを箸でつまんで口に運びながらわかめの雫のこぼれた時のためか箸の下に左手でお手くぼにしながら、まさに舌鼓という風に舌を軽く二、三度鳴らして、
 「ほんとにいいお味です、このわかめの柔らかいこと、ほんとに……」
 しんから感動したような言い方をする。
吉屋信子には珍しく、よい描写ぶりだと思う。このひとが、成りあがり、贅を好むなら、それもまた好ましく思えるし、そのために、旺盛に筆をとったというのも、好もしいと思わせる。吉屋信子は、この林芙美子を、男勝りで、新進女流作家たちを蹴落としてでも生き延びようとした生き様より先に書く。それが、吉屋信子にとっての林芙美子だったからだろう。

しかし、これまでこの本を読んできて、ふたつの気がかりがある。
まず、背景としての戦争だが、それは全編を読み終えたときに、考えてもよいだろう。
もうひとつは、少女小説家として一世を風靡しながら、純文学に強いコンプレックスを抱えていたように思える吉屋信子の在りようだ。
林芙美子との関係では、朝日新聞に林芙美子が書き、時を同じくして毎日新聞で吉屋信子が書く、あるいは、従軍作家として陸軍班の紅一点が林芙美子なら海軍班の紅一点が吉屋信子だったという。なにかライバルめいた因縁があり、なおかつ林芙美子の気性からすればそうした関係の吉屋信子を疎みそうでさえあれば、もしかしたら林芙美子は吉屋信子を土俵違いの相手としか見ていなかったのではないかとさえ思えてくる。吉屋信子はその点をどう思っていたのだろう。
 その作者の死によって、『朝日新聞』の『めし』は連載九十七回で中絶した。私はその夏の末から『毎日新聞』に『安住家の人々』を翌年四月まで連載完結、幸いにマリー・バタイユ女史の仏訳によってパリのストック社から刊行され、つづいて独、伊語に訳され、また最近デンマークからステーマン女史の手で訳書刊行の運びになっている。これはまったく私の思いもかけぬことが実現したのである。なぜこんなことを自慢たらしく書くかというのは、林さんが死の一週間前に私たちとの座談会で「この秋フランスに行ってアジアの憂鬱を主題に書いて向うで仏語で出版するつもり……」と宣言された意気さかんな計画を聞かされた時、私はそんな野心など片鱗も持たず「へえ!」と林さんの野望に感嘆していたのを思い出したからである。あまりにつねに大いなる大望を抱いた彼女は心身をすりへらして倒れた気さえする。天は非情である。
そういえば、これまでと違い、この章では、主人公を呼び捨てでなく「さん」づけにし、「わたくし」が「私」になっているな。
それから、この章を読んでいて気になって仕方がなかったのが、林芙美子のそれと対比的に置かれるたびに、吉屋信子はなんとタイトルのつけ方が下手なのだろう、ということ。

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