ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月4日

白いおでこの印象(吉屋信子)

自伝的女流文壇史」の第4章は、「白いおでこの印象 宮本百合子と私」だ。


あいにく私は、宮本百合子と聞いても、その名まえしかしらない。どこかで耳にした名まえだな、ぐらいしか思い浮かばなかった。
だけど、それは吉屋信子にしても、たいした違いはないようだ。吉屋信子にとっても、同時代を生き、同業者として、何度か顔を合わせることはあった、そんな書きぶりなのだ。

この章の〆の段落が下だ。
 ――(宮本百合子)を語る適任者には湯浅さんや佐多稲子さんがある。けれどもわたくしもまた私なりに宮本百合子そのひとからじぶんの生涯に何かを受けている。忘れ得ぬひとである。そして女流文壇に一つの異色ある大きな足跡を残した作家である。そのひととあるひととき交わりのあったことをわたくしは幸運に思う。
いかにも、言わなくともよいようなことを書いて、その稿の終わりとしている。
いや、そもそもの書き出しさえが、ひとの口を借りて、宮本百合子を説明しているのだ。
 この稿を書き出そうとした朝の郵便物のなかに建築雑誌『室内』があった。パラパラと頁をめくると、いつもこの雑誌で私が愛読する続きもの(西洋館を建てた人びと)が今月号(昭和三十七年八月)の登場人物は(ビジネスに生きた人・中条精一郎)と題されている。
 その筆者村松氏は冒頭の小見出しを(宮本百合子の父)とされた。そしてこう書き出してある――「建築家としてよりは『百合子の女史の父』としての方がよく通った」とは、口の悪い建築史家伊東忠太が中条精一郎を評した言葉である――と。この中条精一郎の建築上の伝記と説明を読むと、宮本百合子さんの履歴と思い合せて興味深い。
こうした「宮本百合子と私」という副題に似合わない、あたかも伝聞書きの伝記のような書き出しは、ふと先に引用した〆文のなかにもすでに明らかな、一人称の混乱「私」と「わたくし」の混在にも、宮本百合子と自分自身の関係、距離を量りかねているようにさえ見えてしまう。
そうなると、吉屋信子は自分をさらけ出さずにいられなくなってしまった。書き出しから宮本百合子の十八歳という早いデビューを語り、それもまるで、工学博士のご令嬢だからのようにも、室生犀星など引きながら書いて、ついに、これまでもチラチラ見え隠れしていたコンプレックスをあからさまにしてしまう。
 ところが、ここにもう一人、憂鬱組があった。それはほかならぬわたくしである。わたくしは百合子嬢より残念ながら三歳上であるにもかかわらず、やっと童話を幼年雑誌『良友』に『花物語』を『少女画報』に連載中の一少女小説作家に過ぎなかった。わたくしも女学校三年生の時に少女雑誌の懸賞少女小説に『鳴らずの太鼓』が当選している。そして『花物語』も投稿から採用されたのだった。幸いその花物語の第一巻と童話集『赤い夢』が刊行されていたけれども、工学博士のお嬢さんにはかなわないとひがんでしまった。
そして終始このひがみはぬぐわれたようには見えない。というのも、吉屋信子が引く宮本百合子の科白ときたら、どれも、なんとも嫌味なものばかりなのだ。
 「わたし、あなたに好意を持ってるのよ」
これがふたりの最初の会話で宮本百合子が吉屋信子に言った言葉として記憶され、書かれているわけだが、吉屋信子自身が、それを下のとおり評している。
 それは彼女ともあろうひとが俗な殺し文句を弄するはずがないとしたら――素直にわたくしはそれをかたじけなく受け取るべきであった……だが内心ひそかに感じたのは、その言葉のなかに(だから怖がらないでいいのよ)との意味の通行証を与えられた気がした。
距離を作っていたのは、ほかでもなく信子であることを信子自身も自覚している。


それはもしかしたら、かたや情報部の策に乗って従軍までした吉屋信子と、戦時中夫が獄中にいた、本人も幾度となく連行もされた左派の宮本百合子との距離だろうか? それはこのあと佐多稲子との交際が語られるときに、見えてくるかもしれないが、やはりこの章は、自身が〆に書いているとおり、物足りない。

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