散文に慣れてきたのかな? 逆にいえば、最初は慣れていなかっただけで、さすがは文学者、ちょっと書いてみたら、どんどん上達したということかも。
だとしたら、出来事としては最高にエキサイティングだった「今子と言う娘」は、早まったのかもしれない。おいしいネタは、書き方を見出すまで温存したほうがよかったかもしれない。
まさか、この「登山電車の女」が、ついにHに漕ぎつけてしまった相手だから、筆が乗ったというわけではないよね。
ところが、ぼくが中ほどの車に納まって、出発後二三分たつと、いきなり一人の女性が、うしろの車からあわただしく飛びだして来て、ぼくの眼前の席に坐った。ロマンス・チェイアのさしむかいにである。見ると、さっき駅で見かけた洋装の彼女だ。そして、今度のヒロインは、アクションとともに現われる。
「あら、いやだわ。いやだわ」
という叫び声を連発し、髪のあたりをしきりに手で払っている。きれいな顔を神経的にゆがめている。
見ると蛾だ。今まで気がつかなかったが、かなりの蛾の大群が電車内を飛び廻っているのだ。
「わたし、これが大嫌いなんですの。あら、いやだ、いやだ」
彼女は言訳のようにぼくにこう言って、立ったり、坐ったりしている。ぼくは、扇子を出して、彼女のために、蒼白い蛾のむれを追い払ってやった。
アクションは、彼女をどんどんアクティブにもする。つられて、「ぼく」までがアクションを演じる。
「ではごきげんよう。ところであなたはぼくを知ってるが、ぼくはあなたの名前も訊いてない。だから、おもいだしたら、そのうち葉書でも下さい」改行の多さ、句読点の多さ、これらがテンポを早めている。まして、老人の視線! ワクワクする。
彼女とむかい合いの席の老人が、ジッとぼくたちの挨拶に耳をかたむけていた。
間もなく、発車のベルが、ジリジリと、異様な大きな音で鳴った。
と、その瞬間、今まで落ちついていた彼女が、パッと立ち上って絞るような声で叫んだ。
「先生、乗って!」
ぼくはその声の圧力にうごかされて、うしろの空きベンチへ機械的に走った。そして、重いスーツ・ケースをとると、二十年も若返った気もちで、まさに動きだした列車のステップに飛びのってしまった。
ところで、この引用部の最初の「ぼく」の科白のなかにある「訊いてない」というときの「訊」という漢字の使い方だが、少々違和感がある。前には「聞」の字を使っていた章があったはずだ。そう、この章は、漢字の使い方にも工夫が見られるのだ。そもそも書き出しを見てみれば、
夏の夕ぐれ、ぼくは悒欝(ゆううつ)な顔で、箱根の強羅ホテルを出た。かなり重たいスーツ・ケースをさげていた。平仮名も多用する西條八十だが、「悒欝」というのは、私ていどの教養では、ルビがなければ読めなかった。
こうした文章にたいする意識が、いよいよ描写をも冴えさせる。
その間に列車は小田原から早川駅。見ると、窓外は淼漫(びょうまん)たる相模灘。ちょうど、まんまるな夏の月がのぼりかけている。光が波を金色に彩っている。気もちのいい微風が吹き入ってくる。なんとも言えない風情だ。そこへもって来て、未知の若い女性と温泉行のスリル。ぼくは、あとでどんな災難が来ようとも、この希(めずら)しいスリルが捨てられるものかと感じた。それなら、女だって魅力的に描かれるようになる。
とりあえず、女中におそまきの食事を注文し、酒肴がチャブ台の上にほどよくならべられたころ、彼女がやっと風呂からあがってきた。言葉を多く費やし、ご大層な書きぶりではないか。
ところが、その姿を見て、ぼくは「あっ」とおどろいた。目をみはった。
彼女は今までの洋装を着かえて現れた。それがいかにも粋な中形のゆかたに、伊達巻という仇っぽい変りよう。おまけに、その着こなしと言い、襟白粉のつけかたと言い、全然素人ばなれがしている。それが、座敷の隅の姿見の前でちょいと髪づくろいをしてから、スッとチャブ台の前に坐って、お銚子に手をかけた。
「あっ、これは芸者だ。やられたな」
というのが、そのときのぼくの第一印象だった。
彼女はさっきから見ると、もうずっと落ちついていた。させば飲む。飲みっぷり、盞(さかずき)の返しっぷり。お酌のしかた、どれも堂に入ったものだ。その態度が万事日本間にしっくり嵌っている。だが、芸者が化けたのにしてはどこかすこし変だ。みょうにギコチないところがあるし、近々と見る顔や肌も荒れていない。どこか初々しく、おおらかで、上品さがある。
ところが、いざ、そのときとなると、ちょっと恥ずかしいような書きぶりに戻ってしまう。正直にいうと、私は笑ってしまった。
それを聞くと、ぼくは、ガバと身を起し、勇敢に彼女の夜着の中にはいっていった。官能小説でもちょっと見ない恥ずかしい官能シーンだ。だけど、ここに、大切なことが隠されている。彼女はなぜ、「痩せていた」のか。
彼女の肉体は見かけ以上、痩せていた。痛々しいほど骨ばっていた。しかし、それと対蹠的に、ものすごい情熱家だった。ぼくは生涯にあれほど、コークスの焔のような女に出会ったことが無い。
まるで焦熱地獄にいるような一夜は、ほとんど眠ることなしに、短かく夜明けた。有頂天になったぼくは、その間にいろいろなことを彼女と約束した。もう二三日は東京へ帰らないこと。明日は揃って白石の釣り堀へ行って終日遊ぶこと。それから十国峠へドライブすること。等、等。
「ぼく」は、翌日、東京に仕事があったことを思い出し、女と別れて帰るのだが、それきり、会うことはなかった。それでも、彼女との会話を辿って、「ぼく」は彼女の素性を突きとめ、その後の彼女をしる。
出会ったその夜の一夜かぎりのアバンチュール、物語としてはそれだけのことだ。ただのモテ男の自慢話のようにも読める。それでも、この文章術が、ドンドン進化していくなら、それを見るのも面白い。
て、天下の西條八十相手に、凄く偉そうだね、私ったら・・・。
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