ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月16日

十一号室の女(西條八十)

女妖記」第二章「十一号室の女」を読んだが、あれれれれ、面白いぞ。
今子と言う娘」の40P近い長さに比べ、ほんの15Pほどという短さが、一気に読ませたということはある。また、女の面白さもあるかもしれない。いや、むしろ、「今子と言う娘」は書きすぎていた、書くべきことが多すぎたのにたいして、「十一号室の女」と「ぼく(西條八十)」が顔を合わせたのはただ一度のことであり、その一場だけの女だからこそ、西條八十の筆も、その姿を現前させえたのかもしれない。

そもそも、そのタイトルがよいではないか。「女妖記」だの「今子と言う娘」だの、やけにちゃちなタイトルに較べれば、よいタイトルだと思う。といっても、では、その十一号室という場所に特別ななにかがあったかというと、そうでもなく、読み終えたあとにして思えば、下手なタイトルで、だけど、西條八十もそのタイトルの無意味さに意識的だったようでもある。
というのは、やけに場所に拘るのだ。
 老人はおなじ話を繰返す。おなじ話じゃないが、名古屋近辺から始まったので、当分ぼくの回想は、そこらへんから東海道を上下しそうだ。
 アンリ・バタイユが、あの有名な「記憶」の詩に書いたように、記憶はわれらの脳中に無数の部屋をつくって、その中で眠っている。青い部屋、ももいろの部屋、そして人間は、記憶がいつもそこで自分の来訪を待っているのを知りながら、つい忙しいので、そとから小窓だけ見て通り過ぎる。ところが老人になると、ひまが出来るので、ときどきその記憶部屋をノックするようになる。だが、老人のものぐさで、ついいつもおなじ部屋か、近所の部屋をノックしてしまうのらしい。
どう考えても、この書き出しは余計だろう。だが、ディレッタントを気取るからではなく、ここでアンリ・バタイユを引くことは、すぐさまタイトルの十一号室という「部屋 」を連想させる。閉じられた小さな部屋を私たち(読者)に印象づける。
印象づけたうえで、ようやく、女が紹介される。
 ところで、昔、原阿佐緒という有名な女流歌人が、名古屋で酒場を経営していたことがあった。このひとは以前銀座でもそういう商売をやっていて、ぼくも遊びに行ったおぼえがある。その店につとめて、ペン・ネームを赤木千鳥という文学少女がいた。これが詩を書く。そして、詩稿を頻々とぼくのところに送ってくる。
「ぼく」は銀座の原阿佐緒の店に遊んだおぼえはあるというが、名古屋の店については、触れていないところを見れば、「ぼく」と赤木千鳥は顔を合わせていない。ただ原阿佐緒を共通の知人としているにすぎない。共通の知人をもつからといって、西條八十だ、そうして送られてくるものにいちいち付き合ってもいられない。ところが、
 当時、ぼくは詩の雑誌を主宰していたし、そんなことはざらだから、初めは読まずにいたが、或るときふと読んでみると、一風変った詩である。自由詩形の、どれもおそろしく長い詩で、男のようなあらっぽいペン字で、思うことを憚りなく奔流のように書き流す。たとえば、――
 女子の陰部の臭きは
 イヴが天上で林檎といっしょに
 にんにくと、どくだみを喰べたからだ……
 と言うような奇抜な句などがあった。
それで、しばらくの文通が起こる。それでも半年もすると、詩は届かなくなる。それなのに、突然、東京にいるというその女から速達が届くのだが、これがまたうがった手紙だ。彼女は、心臓弁膜症で余命一か月と言われ、死ぬまえにぜひ一度、西條八十に会いたいというのだが、ただ会いたいと言ってもそうそう聞き入れられるものでもあるまい。
 つまりそれは「わたしは普通若い娘があなたの甘美な詩にあこがれるような気持で、あなたに会いたいわけではない。わたしはあなたのほんとうの正体をつきとめたいのだ。恋愛の体験も十分にある。そして、今では、男というものは、どの男でも所詮は一ぴきのけだものに過ぎないということを悟った。だがここになとりきれないのは西條八十という詩人だ、この男だけは、なんだかほかの男性とは別なような気がしてならない。幼い日から親しんだ作品の影響によるのか、これだけは別で、時には神的(ディヴァイン)のような感じさえする。わたしはこれがくやしくてならない。おもうにこの詩人も実体はおなじく一ぴきのけだものなのであろう。わたしは死ぬ前に、この心の偶像をきれいにぶちこわして死にたい。これは詩の寸前にある女の唯一つの願望だ。あなたの生活がお忙しいことは十分知っているが、これだけは是非叶えてもらいたい。そして、この手紙を見たら、直ぐ、わたしのアパートへ寄ってもらいたい。本来はこちらから行くべきだが、残念ながら、初めての東京で、あなたの住んでいる柏木という土地がわからない。なんでも近くだと聞いているが、土地不案内でどうも行けないから、済まないが、ぜひ訪ねて来て頂きたい」というような文面だ。
死の淵に立つ女の頼み、まして、おまえのけだものを試したいというのだ。スケベ心を刺激する。

そして、ここでまた、場所(空間)だ。それは、女の手紙の、行きたくとも行けない事情という手紙にすでに暗示されてもいた。
 当時住んでいた淀橋柏木の家から、新宿にむけて走り、もとレバノン教会というのがあった樹木のこんもりした横路(よこみち)をまっすぐに甲州街道へぬけた。そして街道を右に曲って、京王電車の幡ヶ谷駅前へ出た。踏切りをこえると、当時はたしか、小川が線路むこうを横に流れていたとおぼえている。
ずいぶんご丁寧な説明ではないか。

では、はじめて会う女を、西條八十はいかに書いただろう。
 それは背のすらりとした断髪の女。眼が強烈に大きいのが印象的だった。色は薄黒く顔は多少野性的に角ばっているが、まあ美人だった。古びた黒のカシミヤのスーツを着ていた。
やはり情けないぐらい凡庸だ。「強烈に」「印象的」とか、「まあ美人」なんて言葉遣いを、仮にも大詩人が書くのか、と驚くほどだ。西條八十も、これが詩であれば、間違ってもこんな形容はしなかっただろう。
だが、いざ自分のスケベ心となると、オブラートに包まざるを得ないだろう。
 「ぼくをけだものと見究めてから死にたいと書いてあったが、いったいどうやってこの女はぼくの獣性を見究めるつもりだろう」
 そんなおかしな疑いもあって、ぼくは話しながら、ちらちら彼女の相貌風体をうかがっていた。「男を知った女」「恋愛経験も十分ある女」などと手紙で言ったが、眼前の女にはそれほどすれた様子はなかった。白粉気もなく、わりあい純朴そうで、世帯(しょたい)じみたところもない。わるく言えば、ただの田舎むすめだ。ただ一本気で気性が烈しそうだ。なるほど、この一本気があんな大胆な詩を書かせるのだなとうなずけた。
 あまり話上手では無い女。どことなく落ちつきのない女。たいしてエロティックでもない女。ぼくはそれから話題を彼女の好きそうな詩や詩壇の方へと持っていったが、短時間で飽きてしまった。手紙で予想していたようなテキパキしたことは何ひとつ言いだしそうにも無い。
とはいえ、この場面、十一号室の場面こそ、いや、ここだけが、この一篇のすべてである。時計を見る「ぼく」に、女は紅茶を淹れて差し出す。
 ぼくはコーヒー党だし、飲みたくもなかったが、儀礼上、しかたなしにとりあげて、口をつけた。
 と、妙な感触があった。
 匂いだったろうか、味だったろうか。今でははっきりおもいだせない。とにかく、舌をピリリと刺す異様な味と、奇妙な甘酸っぱい匂いが、同時に来た。直感がぼくに、「このお茶にはなにか混ぜものがある」と警告した。
 ぼくは女の眼を見た。そして、このときの人間の眼ほど、それこそまるでショウ・ウィンドウのように大きく奇怪に映ったものを、ぼくは二度と見ない。
「今でははっきりおもいだせない」といいながら「舌にピリリと刺す異様な味と、奇妙な甘酸っぱい匂い」とはっきり書いてしまうその饒舌は、意味不明の比喩まで呼び込んでしまう。この意味不明さが、詩人の面目躍如といったところではないか、とさえ思える異常事態の出来だ。
 あとから想うと、危機の前には、人間の肉体全部はひとつの怪しい感覚と化して、その主人公に警告を発するのだ。ふたたび戻った椅子の上で、ぼくは周囲の空気が、今までと全然一変したことを感じた。せまい部屋の中が急にうす暗くなり、なにか無数の湯だまのようなものが、ブツブツいう音でいっぱいだった。ポオの短篇小説に、天井が、ジリジリとせり落ちてくる殺人部屋に入れられた男の心理を書いたものがある。ぼくはそういう息ぐるしさをたまらなく感じた。
ここでも直喩とそして、ポオの短篇の比喩わざわざ「部屋」という言葉を使う。

詩は、書けるものでも、そのままに書けないところまで追い詰めて、日常の言葉を突き破る。だが、このとき、西條八十は、もとより書けないものに突き当たって、日常の言葉が通用しない事態に出合ってしまった。

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