ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月20日

桔梗の話(西條八十)

歴史小品」の「老子 函谷関に帰る」(郭沫若)を読んだけど、古典だね。
まるでプラトンの中国版を読んでいるようだ。対話によって、思想を語る。いや、対話にもなっていない。老子がひとりで延々と話し続ける。弟子(のようなもの)相手に、かつての自己を否定する、というスタイルは、対話形式としては、面白いと言えなくもないし、書き出しは、真夏の描写で、それはまた、老子が砂漠から帰ってきた、その暑さに対応していたりもするのだけれど、ひたすらかぎカッコのなかで語られるスタイルは、読書の時空を、その語りつつある場所に固定してしまって、動かない。
唯一、老子が振るう牛の尾だけが、場面に動きを与えているけれど、物足りなさはいなめない。

で、もう一度、「女妖記」を開いた。
じつは、この短いお話ばかりの本のなかで、「桔梗の話」はとりわけ長く、60Pに近いから、期待半分、ガッカリしそうな予感半分で、ちょっと手を出すのを躊躇ったのだった。
だけど、いざ読みはじめたら一気に読んだ。

それは、きっと私の趣味の問題だとは思う。
ここで描かれた桔梗と言う女が、私の好みに合ったという、いわば、まったく下衆な理由によるだろうけれど、とにもかくにも、面白く読んだのだった。
永井荷風が描く女、近松秋江を翻弄した女、これらの小説を、偏愛している私だから。
 ぼくには、あの放埓無慙な半黒人女ジャンヌ・デュヴァルと別れられなかったボオドレエルの心境がわかるような気がした。また、自分に黴毒を感染させた曲馬女、ユージェニイ・クランツと、臨終の夜までベッドを共にしたヴェルレエヌがわかるような気がした。やがて、叔父の家にも飽きたから、どこか山の温泉へでも行って静養したいと、彼女が言ってきたのを倖い、ぼくは当時有名になった鬼怒川温泉の川沿いの一旅館に彼女を滞在させた。そして、自分も折々訪ねて二三泊してくるのだった。
「ぼく」は、盗癖、虚言癖、浮気症の、ろくでもない女の、その虚言を楽しみながら、それは憐れだった母を見てきた自分の、女性一般にたいする同情からでたもので、そこに恋愛感情はなかったという。
 ところがまったく離れてみると、ぼくは突き離されたような寂寥をしみじみと感じた。やっぱりどこかに置いておいて、時々逢って彼女の嘘やペテンに翻弄されてるほうがずっと生き甲斐があるような気がした。
 もうそれはセックスの問題ではない。めずらしい欺瞞の魔呪がかたくぼくを縛っていたのだ。
この魔呪が、すなわち恋愛ではないと言えるだろうか?
西條八十もまた、嘘吐きだ。カッコつけだ。だから、母の話など持ち出す。
 今にして、当時のぼくの心理を考えると、ぼくは、男性対女性という風に、頴子を愛してはいなかったようである。それには最初の出発点が恋愛めいたものでなく、それに年齢の差もあり、それからもうひとつ、ぼくには女性に対する生来の異常な、いたわりの感情もあるのだ。
 ぼくは、自分でくやしいほど女性に対しては優しい。これは母からの影響だと信じている。というのは、ぼくの母は実に気の毒なひとだった。
よくもまぁ、自らを「異常な、いたわりの感情」を女性に対してもつなどと臆面もなく書けるものだ、と思わずにいられないが、しかし、「くやしほどに」と言うひと言が、それを本音に見せる。きっと、彼は嘘をついていない。それは、まさに頴子の虚言とおなじものだ。
例えば「ぼく」は、女の嘘を追及することを無粋というようにも、それをしないと言いながら、突然探偵の真似をはじめたりする。その矛盾が、彼にもありながら、女の矛盾を糾弾する。その姿こそ、この小説の面白さかもしれない。
近松秋江の「黒髪」シリーズの、男の滑稽さにも似て・・・。
その一方で、下の書きぶり、いや書かなさを面白い、あるいは上手いとも思う。ちなみに、先に説明しておくと、瑤子は頴子の妹で、上京してともに暮らしている田舎娘だ。
 ある大雪の夜、ぼくはそこの二階でおそくまで仕事をしていたが、やがて帰り際、階下(した)へおりて、うすい蒲団で、寒そうに寝ている瑤子見て哀れを感じた。
 ぼくは、そとへ出て、荒物屋から、小判型のアルミの湯たんぽを買ってきた。それに自分で沸かした湯を入れて、ねむっている瑤子の夜着の裾へ入れてやり、それから柏木の家へ帰った。
 ところが、その折、ねむっているとばかり想っていた瑤子は、永く永くそのことを記憶していた。これが、このあとで記す或るエピソードのたねになる。
並みの作家なら、この場面は、丁寧に書くだろう。こんなおいしい場面はない。ほんとうは書きたかったのかもしれない。その余韻が、「自分で沸かした湯」などと、自己顕示の強い文節に顕れているようですらある。いや、ここは、気の利いた作家なら、けして「自分で」などとは書くまい。
だが、これをこう書かれてしまうと、「このあとで記す或るエピソード」に、思わず期待してしまう。その期待はまったく裏切られるのだけれど・・・。

たしかに、女にとびきり優しい男であることは、間違いないし、甲斐性も人並み外れて持っている。だけど、見栄も張る。カッコつける。
と、もしかしたら、このひねくれた読み方、見え方は、もしかしたら、直前に読んだ「老子 函谷関に帰る」が影響しているのではあるまいな、などと自分を勘ぐる。

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