ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年2月7日

鳥(色川武大)

小さな部屋・明日泣く」の第6篇は、「鳥」というきわめて短い小説。きわめて短い小説なので、簡単に・・・。

内田百閒の「東京日記」を思い出しながら、読んでいた。
じつはその昔、旺文社の「冥途・旅順入城式」に出会って以来、内田百閒の小説は、見つけるたびに買い込んでいたのだけれど、彼の随筆は敬遠していて、ところが、小説より随筆のほうが圧倒的に多いひとのことだから、「東京日記」もそのタイトルからてっきり随筆だと思い込んで、長く手をつけずにいたのだった。それが、小説としって読んでみたら、これほど面白い小説もまたとなかった。

そして、「鳥」だけれど、そんな面白い小説を思い出させてくれるほどに面白い小説だった。面白い小説だったけれど、わからないといえば、わからない。


文章は、あたかも子ども語りだ。
 戦争が終って間もない頃は、お濠のまわりは樹なんか生えていなかったんだ。鳥も魚も何も居なくて、我々が寐ているだけだったな。ぼくは汚い草叢で、ずっとお濠の水を眺めていたよ。
語尾を見るかぎり、いかにも語りなのだが、「ぼく」という人称だからといって子どもとはかぎらない。げんに「我々」などという怪しげな人称も紛れ込んでいる。さて、「ぼく」とはなにものなのだろう?
 お濠ってのはさ、なんの味もなくしらじらしい広い空間で、そのくせ妙に冴え冴えとしてるんだ。お濠は何もくれない。水は満々としていたけれど、ぼくは妙に納得して、何も期待しなかった。それで今でもあそこに行くと、空腹を思いだす。
戦後に、お濠で空腹を覚えるというのは、天皇にたいする恨み言のように見えなくもない。だが、そのまえに、「思いだす」というなら、今のことではないだろう。すでに過去になった時間が語られようとしているらしい。
 そのときは、夕立がひとつ来て、あがったばかりで、天も地も水っぽい蒼い気配が漂い残っている。
 ぼくは黒い砂浜のような焼土の中をどこからか歩いてきて、土手公園の便所へ行くつもりだったんだ。
いよいよ、語られる時空が明確になってきた。また「ぼく」がなにものなのかも、わかりかけてきた。だけど、それ以前にいた場所は「どこからか」と、曖昧なままだ。それは、どこまでも広がった焼土のなかだから、どこともしれなかったという謂にもとれるが。
そして、「ぼく」は鳥売りに出合う。だが、ここから、不穏な時空になっていく。まずは、鳥がわけがわからないのだ。
 大きな竹籠が茂みの中にあってね。その中に蒼い野菜のようなものが折り重なって入っている。その野菜に眼がついていて、キロッ、キロッ、と黒い部分がときおり動いているんだな。
 よく見ると、棕櫚の葉のような大きい嘴があり、蝉の身のように節のついた胴体が、蒼い羽の陰にあるんだ。蒼い羽は、しもげた白菜のようにしわしわになっている。そうしてゴムテープみたいな太い紐で荷造りされたように縛られている。
 鳥はしかし、少しも騒ぎたてない。黒い眼の玉だけを、キロッ、キロッ、と動かしている。鳴き声のない鳥なのかもしれない。
こうなれば、もはやこれは夢のなかだな、と見当をつけようというものだ。なぜなら、その異常さよりも、なにより「棕櫚の葉のような大きな嘴」に気づくにあたり、「よく見ると」という接頭語がある。大きな嘴をよく見なければ気づかない不思議さとは、「よく見る」という行為の中にあり、それは夢の中を書くときに、表れる言葉といってしまってもよい。すくなくとも、しばしばこの言葉は夢の中の描写に表れる。
 別の男にまた呼びとめられるんだ。さっきのは広い道すじに面した好位置だったが、気をつけて見廻すと、あちらにもこちらにも出張っているようで、皆同じ竹籠、同じ荷なんだ。
ここでは「気をつけて見廻す」という言い回しが使われている。

ところが、このままこのエピソードは放り出されてしまう。
そして、一行空きを挟むと、下だ。
 都電がまだ復旧しない頃、舗装道路を夕方の人波が、お濠のそばの駅に向かっている。
 ぼくもよくその中の一人になることがあるんだ。空腹だし、どこかで休みたいけれど、そうやって歩いて駅に行くほかはないんだ。
最初のセンテンスは、日本語の文章として成立しているだろうか? 「都電がまだ復旧しない頃」の話をしながら、それが語尾では、「向かっている」と、今の話になっている。これはなにごとだろう? 今とはいつなのか? たしかに書き出しでは、あたかも過去を語る素振りだったはずだ。
いや、夢のなかで、過去を見ているのかもしれない。
妙な鳥とそれを売るお話の次にあるここでは、自転車に乗る弟を追ううちに、八つ手に絡まれる「ぼく」がいる。そして、このエピソードの終わりには・・・。
 ぼくは眼を覚まそうともがいた。眼さえ覚めれば救われるような気がしたんだけれど、居場所に起き直っても、視野いっぱいに糸みみずが動く気配が消えなかった。
それを夢の話だといわないまま、「ぼく」はそれを夢のなかの話だと、すでに自明のことのように語る。まして、自身もそれを夢のなかで気づいているように。だけど、夢から覚めない。

次のエピソードは、芝居小屋に紛れ込むお話だが、これ以上は書くまい。この不思議な世界に触れればいい。

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