ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年2月2日

ひとり博打(色川武大)

色川武大「小さな部屋・明日泣く」は、まだまだ続くのだった。

「ひとり博打」は、短篇の半生記だから、場面や出来事は乏しく、映像を見せてくれないさみしさがある。
だが、それがまるで私小説のように読ませる。いや、それは嘘だ。宙吊りの「私」がここにいる。宙吊りになっているのは、私たち(読者)だ。


書き出しから、「私」の不明さが語られるのだが、その不明さは、「私」固有のものではない。だれにもある「多層性」にすぎない。
 私も、私を知る限りの世間から、さまざまな判定を受けている。一応の稼業の、雑誌編集者、というあつかいをはじめ、賭博常習者、怠け者、男色者、生活音痴、鬱的楽天家、大体こういう線が多い。そうして私も、自分の行動範囲を疲れた肝臓のごとく膨張させている一人であって、まったく関係のない交際群をいくつか持ち合わせている。そのためか、まだ別の判定もあるので、雑誌編集不適応者、というのをはじめ、遊び嫌い、性交不能者、狂人、小市民、器用貧乏、努力家、小心者、などあり、道徳家と称ばれることもある。いずれも実際にそうでないことはないし、そうした称び名に特に不服があるわけではない。又、そういう称ばれかた以外のどんな評価やあつかいを受けたとしても、今、べつに関心を持たない。
たがいに矛盾するようにも見えるたくさんの言葉が、「私」のパーソナリティとして、提示される、とはいっても、それらは、みずから言うのではなく、他者たちの口をつうじて、言われる言葉たちだ。他者「たち」の口であるならば、時と場合によって、すこしずつでも違いつつ「私」であり続けている。
だが、「今」、それは関心の対象ではないのだという。「私」が問題なのではない。
 自分とは何者であるか、という問いつめはむろん必要であるにしても、その結果、ポロリと解答が出てくる式の、その解答自体はほとんどなんの意味もないことのように思われる。要するに何者だって(人間でなくたって)かまやしないので、したがって、私が無頼であるとか、ないとか、いかなる気質でどんなふうに生き、生きようとしているか、などについて記述するつもりはない。
「その結果、ポロリと解答が出てくる式の、その解答自体はほとんどなんの意味もない」のは、自身を語る他者たちの多様な言葉が、不服もなく関心ももたらさない、まさに無意味なのだから、当然と言えば当然ではあるだろう。「いずれも実際にそうでないことはない」と「私」は認めているのだから。
そして、多様さの中で、「私」は分裂する。
 ここに、私よりいくらか勇気のある人物を紹介し、この男のさまざまな面を記述していきたい。やはり私という人物であるが、この人物にしてもまだ生きている以上、まっすぐ砂漠の中へ猛進していったわけではない。砂漠に二三歩踏みこみ、又立ちどまった地点に立ち戻り、その往復をくりかえしている。したがって進歩(或いは変化)というものは無いのであり、そのような方角から見てどういう印象を呈しようとも、それはこの小文の埒外のことである。
なんという不可解な段落だろう。いや、どのセンテンスも明瞭な文章である。だが、「私」という自己と、小文というこの小説を語る自己言及の段落だ。
紹介する人物が「やはり私という人物」だというのだ。語り手がただ変わるだけだといえばいえる。たとえば、アナトーリイ・キムの小説のように。だけど、それならわざわざこんな書き方をするだろうか?
そして、「したがって進歩(或いは変化)というものは無い」人物の物語だと言う。出来事に出会うことで、それまでとなにかが変わること、それが小説ではなかったろうか? 変わらないことを語ろうとするなら、その時間は延々と語り続けられねばならない。だけど、それでも、変化がないわけではないのだ。ただ、その変化が、「私」の変化ではないということだ。「私」が世界に対峙するその在りようは一貫しているということだ。ますます語るべき時間は長くならざるをえない。
だから、「そのような方角から見てどういう印象を呈しようとも、それはこの小文の埒外のこと」なのだ。
げんに、この段落のあと、一行空けると、「私」の物語がはじまる。

こうした自分(私、小文)の在りようを語るとき、この小説は、小説、物語、世界を作っていく、すなわち小説的なるものを作っていく「私」を語る物語になってしまうのだ。それはまた、小説家である「私」
=色川武大のようでさえある。

簡単にいってしまえば、「小さな部屋」の東郷文七郎のカードゲームが、相撲にはじまり野球(これはもうどうしようもなく「ユニヴァーサル野球協会」が読み返したくなる。どこにあったかなぁ?)、さらには競輪から、その背景としての世界を、創造していく男が「私」なのだ。
それは、「私」の生活を支配する。まるで、小説家そのものではないか。
 そういえばちょうどこの頃、空襲期に突入しており、どういうわけか、あれほどカードたちの心情に執着するくれに自分自身のこととなると、そのときが来るまでは死は他人のもの、という感じをもってもいたのだが、しかし、又、退屈な長い時間の果てに、こういう形で勝負のときが来たのだという実感も湧かないわけではなかった。ただB29に対応してどうやって勝負したらよいか、それは焼夷弾に当るか当らぬかというだけの話ではないか、いずれにしても此方側が特に工夫すべき勝負手もなかったので、私は周辺に焼夷弾が落ちるたびに逃げまどっていただけの話だった。要するに私が遊びの対象として格闘していたのは、心情全体、というのか、全体の心情、というのか、おそらくkそんなふうなものなのであり、私とか、私の周辺とかいうふうな限定がない。そうしてそれも実は仮のいい方なので、心情も糞もない塊として息づいているだけの、いうなれば私の中の全能という、そんなものが相手であり、そんなものを身体の中に抱えこんでしまっている困難に比すれば、焼夷弾に当るか当らないか、当ったところでさっぱりしてしまうような気がする。
 どんなきっかけでそうなったのかは知らないが戦争が終り、なんとなく、というよりかなり意志的に、というよりやはり、自然のうちに私はこの遊びをほぼ打ち切っていた。ぴたりとやめたわけではない。つまり部屋に居て直接カードたちを手にしていなかっただけの話で、頭の中ではしょっちゅうかかずらわっていたのだが、なにしろ家庭経済が失調していた。父親の収入がゼロになり、と同時にもう家の中には何もなく、一円札と五円札を集めて毎夜算えているような、子供にもすぐわかる困惑の様子で、私は二度と学校に戻らなかったので、母親と一緒にかつぎ屋をやったり露天で物を売ったり、靴みがき、炭屋の事務員、かっぱらい、輪タク、洋モク売り、掏摸、デン助の手伝い、商事会社(ヤミ屋)の給仕などを転々として金を持ってきたり持ってこなかったり、まあなんでもやっていたわけであるが、そのうち一番有望に見えたのは博打であった。もしこうやって生きていくならば軸は生存競争ということだと私は思っていたから、博打は人間の生き方の中でもかなり自然な、原則的なもののひとつに思われたし、それに年齢その他のハンデもなく、事実私にもかなり金を持って帰れた。
戦争の推移も、「そういえば」とか「どんなきっかけでそうなったのかは知らない」うちに起きている。というより、戦争という背景が問題なのではない。戦争という背景さえ、問題ではない。このさりげない書き方のわけも、「私」にとっても戦争の無意味さでさえない。この無意味さは、むしろ時間のさりげなさ、あっという間に、語るべき出来事もなく進行していく時間こそ、このさりげなさのわけなのだ。
 実際はそう簡単なものではなくて、私は勝てばよいのだと思い、勝つことに力を傾けたが、勝つということは山の木を切り倒すようなもので、そのあと木が生え揃うまで気永に待たねばならない。職業化させるためには、勝つことに努めている段階では無理なので、どちらかといえば木を生え揃わせる工夫にポイントがあるのだと数年の経験で覚えた。つまり客を失わない工夫だ。それをしなくてよかったのは私が十六七の小僧だったからで、二十をすぎる頃は愛嬌が愛嬌にならなくなり、他の商売人と同じく、勝たねば商売にならず、勝てば客を失う、という点に関して生きるための知恵を烈しく使わねばならなかった。私たちは総じて客の男芸者であり、保証皆無のための夜昼なしの労働に従事していた。むろん不平じゃない。だって退屈な時間がほとんど無かったからだ。文字どおりアッという間の勝負の連続であり、負けないで過ごした者しかその世界に残れない。私は例のカードたちのことをほとんど思い出さなかった。何年も。五年も、十年も、十五年もだ。時に自分の部屋ですごす折など、ぬるっと足を踏みこみかけることはあったが、その衝動は弱くて、しかも他に考えねばならぬ眼先のことが多すぎた。私はそれを成人した証拠だと漠然と考えた。私にもいわゆる肩書き(博打うちという)ができたのであり、こういうふうにして転げるように生きていくより仕方がないのだろうと思っていた。
かくも、端的に時間を進めてゆく文章の中で、「何年も。五年も、十年も、十五年もだ」と、ただ「十五年」のひと言ですみそうなものを、多くの言葉を費やす。

きおの時間の在りようこそが、「私」の関心事だったのだ。
それは、終戦(敗戦)を新世紀、新世界の誕生になぞらえた石川淳の「焼跡のイエス」の対極にある。

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