ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月25日

小さな部屋(色川武大)

色川武大の「小さな部屋・明日泣く」を開き、「没後10年目に発見された色川武大名義の幻の処女作」だという「小さな部屋」を読んだ。

小さな部屋が、自分の身体になっていく、自分の身体が部屋そのものであるその世界観、そして、さらにその身体感覚がより広がっていこうとすること、なんともおこがましくも、拙作のことなど思い出し、妙な共感のなかで、楽しんだ。
いやいや、そもそも、西條八十のエンターテインメント私小説を読んできたところで、文章を構築しようという意欲に満ちた、その硬質な文章を読むだけでも、快感がある。それは、なるほど幻の処女作昭和31年に書かれたという若書きの面も多分にあるだろう。硬質は、生硬さとも受け取れる。もしかしたら、「女妖記」のあとでなければ、その硬さ、若さを疎んだかもしれない。

それでも、やはり読まされる。

書き出しで、いきなり読者へ語りかける。
 諸君は鉄格子窓のついた部屋に住んだ経験はあるだろうか。
 恐らく大部分の人がそんな訊ね方をされても、何か不快な連想を働かせるばかりで、住んだ事はおろか、見た事もないと云うに違いない。
読者に語りかけるなら、語りかける主体(書き手)が連想される。
 ところが(筆者が知っているだけでも)東京のど真ん中のあまり目立たぬ住宅地の一隅に、厳然とそれは存在する。敷地百二十坪、建坪七十五坪、鰻の寝床のようにだらだらと地を這った平屋建の最右翼に位置する六畳間がそれである。尤も、厳然……と云ったが、此の家は齢六十年になんなんとし、震災にも戦災にも不思議に焼け残ったと云う位だから木質はとうの昔に腐り、壁は落ち軒は傾き、雨でも降ろうものなら屋外に負けずに水びたしになるので実際は、辛うじて存在する、と云うわけなのだが……。
この書き出しは、あたかも私小説を読むように感じさせる。およそこの部屋の住人は、「筆者」かあるいはその筆者の友人だろうと思わせる。
なぜそう思わせるのかといえば、とりもなおさず、その真実めかした書きぶりによるだろう。丸カッコで書き手が「筆者」の名のもとに顔を出し、数字を並べ、読者の想像をはぐらかすものの存在を証言する、その書き方が、その実在性を暗示する。

ところが、このほんとらしさは、その直後にあっさりと覆されてしまうのだ。
 現在の此の部屋の住人は東郷文七郎という二十六歳の青年である。彼が移り住んだのは約一年前の事だから勿論鉄格子とは何も関係があるわけではない。それどころか紺の背広をきちんと着こなし、細い眼もとから鼻筋へかけてのおとなしい線を黒縁の眼鏡がきちっと引き緊めて、まず整った容貌である。三年程前にあまりパッとしない組の学校を卒え、入社試験も取り立てて苦しむでもなく三流所の小会社へスッと入ってそのまま落ついているのだが、苦しまない代りには悪い事もあるもので、軽便事務機を販売するその会社しか知らず、又そういう小会社の共通欠点で日曜もろくろく休まなかったから、毎日同じコースを行ったり来たりするだけの生活が、まるで変化がなかった。三度の食事も風呂も、会社の附近で用を足すから、時々移転する下宿とどちらが家庭であるのかわからなくなる事すらある。そういう生活にもかかわらず気持の上でバランスがとれているのは全く以て彼の外貌そっくりの平凡なおとなしさを身についている事に起因していた。
見るからにあやしげな姓名の主人公が現れて、これが三人称で語られる物語であることを示唆すると、首の傾げる凝った漢字の使い方が散見しながら、たとえば長いセンテンスの中で、「毎日同じコースを行ったり来たりするだけの生活が、まるで変化がなかった」といった、やはり小首がかしげる文節もあらわれる。それは、たとえば、「軽便事務機を販売するその会社しかしらず」というときの、なにか言いそびれながら、それをそのままに放置して先にすすむ手振りが、なるほど、色川武大もまた焼跡派ともいわれるその片鱗を見るような気にもなる。
そうした脱臼は、下の段落における時間の跳躍にも明らかだろう。
 脇役の四五名は割とスラスラ定まったが老政治家の所へ来てはたと難渋した。此の家の主人ならば、顔の気品といい、生活態度といい打ってつけなのだが、残念な事にはそれより前にスタートした時代劇映画に重要な役として登場している。念の為に抽斗を開けて、東郷文七郎備忘録と朱書きした一冊の大学ノートをパラパラとめくってみた。それには此の部屋の出来事を細大洩らさず記してあったのである。再見三見してみてもチャンバラ映画が完成するには、まだ相当の時日を要する。彼は、自分の作ったスケジュールに厳しかったから、かけもち出演などは思いもよらない事であった。四五日、彼は不機嫌になり事務所の中でも考えおよぶとため息が出て来る。
東郷文七郎は、知人たちのカードを用い、彼らを役者にして、空想世界で映画を作ったりしているその一場面なのだが、その遊びのなかでゆきづまって思い悩んでいるひと時を思い描いていたら、それはひと時のことではなく、数日におよんでいた。この時間の跳躍が、読者に眩暈をもたらし、その眩暈のゆえにこそ、文七郎のカードゲームに対する執着の深さを、体感のようにさえ、思い知らされる。
このとき、私は「ユニヴァーサル野球協会」というとても面白かった小説を思い出していた。
「ユニヴァーサル野球協会」でも、主人公だけの世界の架空の野球リーグが、外部世界としての現実を失調させていった。現実を忘れることは、ただ逃避ではなく、自分の存在もまた現実そのものでもあるならば、現実を変質せしめてしまう。
それなら、小さな部屋で起きる現実の変質は、外部とかかわる自分の変質にともなって、部屋の外の変質も、もたらさざるを得ない。

それは、ただ彼の変質にすぎないといえばいえる。だが、変化、変質とは、相対的なものだ。他者の目にとって、彼の変質は、彼にとって世界の変質にほかならないのだ。
すると、その後物語になにも影響をあたえない無意味な背景と化していた巻頭の鉄格子が、卒然と顕われる。鉄格子によって閉じられていた、あるいは家の歪みによって開け閉てを封じられてもいると同時に、雑多な生き物が往来することで開かれてもいた、その空間は、最後の最後に・・・。
彼は、小さな部屋に閉じ込められていたわけではない。閉じこもりながら、外部から訪れるものたちに触れていた。そうだろうか? 外部から訪れながら、やはりその部屋の中に入ったときから、その部屋の内部のものだった。だから、解き放つ、のではない。解放ではない。むしろ、閉じられた空間を拡張しているのだった。閉じたまま、鉄格子の重みだけを失う。

おやおや・・・、やっぱり思わず、自作に照らした読みになってしまった。

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