ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月8日

忘れぬ眉目(吉屋信子)

まだ続く「自伝的女流文壇史」、次は、矢田津世子だ。「忘れぬ眉目 矢田津世子と私」。

矢田津世子といえば、長く、坂口安吾の結ばれなかった恋人としてだけ、記憶されてきたきらいがある。すくなくとも、私にとっては、その作品に出会う機会もないまま、安吾の名まえの許にのみ、聞き知っていた名まえだった。
安吾は、彼女に恋しながら、だけど彼女の文学は認められなかったといった話もあり、さらに出会う機会のない状況もあり、およそ矢田津世子の書くものは、読む価値のないものだろうと、思い込んでもいた。

それでも、「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集 (講談社文芸文庫)」が出たとき、せっかくだから、と、むしろ坂口安吾への興味の許に読んでみたら、これがとても面白かった。
というより、これは以前のブログにも何回か書いたのだけれど、私は「茶粥の記」という小説に、まったく周囲が見えないほどに熱中してしまった。
埼玉の大宮駅といえば、新幹線も止まる大きなターミナル駅で、帰宅ラッシュの時間なら、大宮駅の乗降は激しい。いや、車中を埋めていた乗客のあらかたが降りる。だから、眠り込んでいればいざしらず、まして座り損ねて立ったまま、この駅を乗り過ごすなどということは、めったにない。ところが、それをしでかしてしまったのが、「茶粥の記」を読んでいたときだった。それほど、私を夢中にさせた小説が「茶粥の記」だった。後にも先にも、すくなくとも今のところ、こんな経験は、この小説だけだ。
まぁ、騙されたと思って、一度読んでみるといいと思うよ。

そして、この「忘れぬ眉目」も、「茶粥の記」を、やけに詳しく紹介している。

だけど、その前に、わざわざ吉屋信子は、下のとおりに書く。
 さて――その彼女の遺作の一つに『茶粥の記』という名篇(わたしはそう思う)がある。読んだ時たいへん感動し、いまもよく思い出す。
わざわざカッコ書きで(わたしはそう思う)といわずにいられない。
そう、やはり矢田津世子もまた、とっとと忘れられた作家だったのだ。そもそも書き出しの段落が下なのだ。
 いまは天国にいる(彼女は地獄に行くまい)女流作家の矢田津世子は日本の敗戦まちがいなしときまった年の早春に三十四、五歳の独身で世を去った。残念ながら樋口一葉ほどにみんなに記憶されてるわけではないが、わたくし個人としては忘れ得ぬよき友だった。
樋口一葉を引き合いに出すのは、吉屋信子なりの、矢田津世子にたいする友誼だったろう。そうでなければ、その代表作とも言えるだろう名篇のあら筋を長々と書きはすまい。なんとそれはおよそ3Pにも及んでいるのだ。それは、この本の読者がおそらくはその小説を読んでいないだろうと思えばこそかくあいなった仕儀だろう。

一方、矢田津世子といえば、その美貌がつとに知られるところでもあり、それもまた矢田津世子を語るうえで、欠かせない点ということになる。長谷川時雨の「近代美人伝」が念頭にあったと思しき、この随筆であれば、その美しさについても、いかに、どう、美しかったのか、矢田津世子の美しさの在りようを、その個性として描くこともまた、吉屋信子は自身に課題だったはずだ。
 彼女は美貌だった、その頃はすがすがしい美少年のようだった。それもそのはず、その当時の松竹少女歌劇の男装の人気スター、ターキー・水の江さんと双花妍をきそったオリエ・津坂の従姉妹でよく似ていた。
冒頭近くに書かれた、出会いの場面のこれだけですませられようはずがない。

いや、そうした矢田津世子の美貌の在りようが語られるほどに、「茶粥の記」の長々しいあら筋紹介が、いかがわしく見えてくるのだ。いかがしいという言い方は語弊があるにせよ、すなわち、吉屋信子は、矢田津世子の文学が、忘れられている、すくなくとも吉屋信子には十分といえるだけ認められていないという思いが、ここに顕れているのではないだろうか。

矢田津世子の美貌と、認められていない文学、このふたつを語ろうとして、この稿は成り立っていたように思う。

では、「自伝的」であろうとした吉屋信子が、矢田津世子の美貌を語るなら、それは、ただ自分の眼で見た矢田津世子を語ること、視覚的な美貌に終始しただろうか?
ここに、吉屋信子の筆が冴えている。
吉屋信子にとって、矢田津世子とは、「清純なる者」だ。
 その後、わたくしがこの思い深い下落合の家――この家で『放浪記』を発表する以前の林芙美子さんに初めて会い、いまの佐多さん当時の窪川稲子さん壺井栄さんと同伴して見えたり、そして矢田津世子さんを迎えたりのそこから旧区名時代の牛込砂土原町の新居に移ってのちも、津世子さんはやはり時折に姿を現わして、大谷藤子さんと共にの満州旅行の話を一篇の小説のように聞かせたりした。そしていつ見てもすがすがしい感じの彼女もやがて三十娘になってゆくが、この知的美女に恋愛沙汰のないのが不思議だと思っていると、ある日、林芙美子さんから青天の霹靂のごとき驚くべき事を告げられた。
 「あなたは矢田さんのそのこと知らないんですか! あのひとWさんと出来ているんですよ。いつか行ったら二階にあげないんでおかしいと思ったら二階にWさんがどてら着てすわり込んでいたのわたしたしかに見ましたよ。もうそれは有名な話ですよ。それを少しも知らないのはあなただけですよ、ハッハ……」
ここで言うWさんとは、妻子持ちの時事新報社の部長だったらしく、その噂を聞いた安吾を苦しめたらしいが、一方、この稿には坂口安吾の名まえは一切表れない。ともあれ、上の引いたエピソードなどは、見様によっては、吉屋信子と矢田津世子の関係・友情の浅さを物語るようでもある。
だけど、吉屋信子は、それを矢田津世子の慎みと読ませる。
なんとなれば、終わり近くに下のエピソードを書くのだ。
 そして昭和十九年クェゼリン、ルオット両島の日本守備隊全滅の翌月の三月十四日、彼女は東京下落合のやはり母堂と兄君との家で逝った。その告別式にもわたくしは防空頭巾など持って行く時代だった。棺側には彼女の著冊が七、八冊ならべてあった。いつ空襲サイレンを聞くかわからぬ日頃とて駆けつける文壇人の顔も少なかった。林さんも誰もたいてい疎開中だったせいもある。その最後の病床の枕辺にもついていられた大谷藤子さんはその時わたくしに語られた。病人は絶対安静を医師から命じられても、どうしても厠へ立たずに病床で用をたすことをがえんぜず、厠へ立ったのが臨終を早めたと……わたくしは涙ぐんだ、彼女の気質的な潔癖が手にとるようにわかり、いまさらに在りし日の清純なおもかげがありありと思い浮かべられた。
嶽本野ばらなどに崇められる、乙女のカリスマとしての吉屋信子の、面目躍如といったところではないだろうか。

ところで、吉屋信子は、坂口安吾と矢田津世子の話を本当にしらなかったのだろうか? それとも、ここには書かなかっただけだろうか?

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