ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月30日

穴(色川武大)

小さな部屋・明日泣く」の第3篇は、「穴」という小説だ。

舞台は、戦時中、語り手「ぼく」は、中学校を無期停学中、元海軍兵の父は、家の床下に防空壕と称して、穴を掘り続けている。
無期停学になる「ぼく」の境涯、「ぼく」に対する母の誤解、空襲、だけど、それらを圧して、父が掘る「穴」がタイトルになる。それなら、この小説の要は、その父の行動だろうか? あるいは、父が掘る穴、その在りようが、この小説世界、あるいは「ぼく」を象徴しているということだろうか?

時間を見るならば、書き出しにそれがサイパン陥落から2か月後にはじまったという。サイパン戦は、1944年7月9日に終わっているそうだから、およそ1944年の秋口からの物語であり、その1年後には戦争は終わる。だとすれば、およそこの小説は、それまで、あるいは、そのタイミングで終わるだろうと想像してしまう。およそ戦争という背景を抱えたままか、せいぜい終戦という歴史の転換点で終わるだろう、と。
 おやじが穴を掘りだした。サイパンが陥ちてふた月ほどした頃のことだ。東京の街に警報(サイレン)が連日のように鳴りひびきはじめ、おかげで眠るときもゲートルや頭巾をはずすわけにいかなくなった、そんなある夜だった。防空壕を掘ろう、と突然いいだしたのだ。隣組の大きな共同壕があったので新しい壕などべつに必要でなかったのに。(斜体字、原文傍点)
無意味な行動をとる父がいる。おそらくは、父には父の論理があって、彼にとって壕は不必要ではないのだろうが、すくなくとも「ぼく」はその必要を感じていない。
 なにをするって? ぼくは訊いたがただそういってみただけだ。返事はない。いつだっておやじとはちゃんとした会話をしたためしはない。彼は、あるときは軍司令官のように重々しく、あるときはただ虫けらのように鈍くぽつりと何かを告げるだけだ。で、告げられて結局そのとおりにしてしまう。おやじは門脇まで出ていき、鳶口や火叩きやバケツやその他がらくたがごろごろしている中からスコップを引きずりだして、小さい方をぼくの手に握らせた。おやじは優しい眼をしていなかった。玄関の三畳間の畳をあげて床板を剥ぎ、青黒く固い土の表面にスコップを入れた。ええい糞、とおやじはいった。
それが父の発言で、それは「軍司令官」かあるいは「虫けら」の発言と同様だから、ただ受け入れるしかないのだと「ぼく」はいう。
では、「ぼく」とは何者だろうか?
 ぼくはその頃、居場所の大半を失っていた。中学から《無期停学》の宣告を受けていたからだ。動員先の工場に足を踏みいれることはもちろん、級友と道で会っても言葉を交すことを禁じられていた。宙ぶらりんのまま、家の中に毎日べったり居坐っていた。ぼくは大人になって、まだ停学処分が解けずに中学生のままでいる自分を想像した。乏しい食卓に向かうたびに穀つぶしという言葉を思いだした。それでもなんとか生きていくためには、まず他人を許し、他人同様に自分を許さなければならなかった。ぼくは自分のしたことを、わざと放ったらかしにしておいた。ぼくは寛大なものに餓えていた。そして曖昧なものにも餓えていた。
これは、いわゆるモラトリアムにほかなるまいが、《無期停学》を受けるきっかけがあった。「曖昧なものにも餓えていた」「ぼく」は、「他人を許し、他人同様に自分を許さなければならなかった」ように、自身についても、曖昧なままだ。
 工場の老守衛が、ぼくが配属されていたボイラー室にきて、不意にぼくの二の腕をつかんだのだ。あの強い力を、ぼくはどうしても忘れることができない。シャベルが転げおち、ぼくはのめって膝をつきそうになった。級友や工員の視線の中をぐんぐん曳きずられた。同じようにして連れてこられたKと一緒に、本社の二階の広い部屋に入れられた。一隅に級友のAが立たされ、両頬を赤く腫れあがらせて泣いていた。そして配属将校を中心に教師たちが群がっていた。机の上にはぼくらのガリ版雑誌があった。別の一隅では工場管理者たちが若い事務員や強制徴用の朝鮮人労務者を調べていた。皆ぼくらの雑誌ごっこに途中参加してきた人たちだった。ぼくは拉致された理由を諒解した。「これはお前等が作っていたんだな」と配属将校がいった。ぼくもKも肯定した。「非国民!」と怒鳴られた。ぼくはAに加えられた以上の痛撃に見舞われることを覚悟した。Aは単なる読者だったがぼくとKはそれぞれ編集発行人だったから。しかし誰もなぐりつけてこなかった。罵声も飛ばなかった。教師たちはしいんとなって、完全に見放した視線をぼくらに注いでいた。その視線には守衛が加えてきたと同じ強力な力がこもって居、ぼくを重罪人のようにおろおろさせた。しかしぼくの方でも、しゃべることは何もなかった。で、しかたなくやっぱり沈黙を守っていた。本来何ひとつ交流していない間柄であったことを、双方がこの機会にやっと気づいたような形だった。教師たちとぼくとの会話はどんな意味でも最後まで甦らず、結局ぼくがしたのは、事実を認めたことと、学校側の決めた処分に服したことだけだった。
配属将校に「非国民」呼ばわりされるようなガリ版雑誌を発行していたことだけはわかるが、その雑誌の内容は書かれないまま、そして、ここでも、父親と「ぼく」同様に、意思の疎通の欠落が語られる。

では、ともに編集発行人となっていたKはどうだったろう?
 寄宿舎を出されて自宅謹慎に入った。ある日Kがぼくの家を訪ねてきた。Kは反抗の姿勢のつもりか高下駄をはき、学帽をポケットにねじこんでいた。二人で近所の上野の山に行った。道々、警報が鳴った。
 あまり話ははずまなかった。Kは「予科練を受けたらどうだと学校側がいってるそうだ。成績書はちゃんと書いてやるってさ。君の所には何か連絡があったか」といった。ぼくは首を振った。ぼくらは草叢に寝そべって、空の高みを通過していくB29の編隊を眺めていた。
「あまり話ははずまなかった」とはいいながら、十分な会話を成立させている。だが、ここで、問題は自分たちのことではなくなる。
 Kは又こういった。「君のおやじさんは校長と喧嘩したってね」ぼくはKの顔を見た。「学校に出頭したときか」「うん、ひどく怒鳴りあったらしい。君の心証はぼくより悪くなったかもしれんな」「嘘だろう」とぼくはいった。「いや、うちのおふくろがきいたんだ」とKがいった。「おふくろも一緒に校長室に居たんだからね。もっともなんでどなりあいになったかはきかなかったけれど」「そんなこと、考えられない」とぼくはくりかえした。「何故」「さあ、――とにかくおやじは、何もしない人なんだ。いつだって誰ともあんまり深まな関係にはならないのさ」「でも呼び出されたんだぜ。君のおやじは応じたんだ」「うん」「で、喧嘩。簡単じゃないか」「とKはいった。「校長は、君のおやじに、無頼漢、といったそうだ」「ああ」ぼくは弱くうなずいた。
こうしてみると、もしかしたら、「ぼく」の停学騒動もまた、父の在りようを語るための小説的作為だったかと思えなくもない。なにより、Kはその後物語からすっかり姿を消してしまうのだから。
だけど、そうでもないのだ。
この小説は、父を、父の穴を語りながらなお、「ぼく」が語り手であることで、「ぼく」を語らずにいられない。モラトリアムのまま、配属将校にそうしたように、謄写版購入に家の金を持ち出したと疑う母にも、やがては真実がわかるはずだと自分にいって、反論もしない。そのモラトリアムは、しかし、級友たちによるAへの制裁にいたって、さらに曖昧になる。
 「どうしたんだ、なぜ黙ってる」とHがいった。「A!」とGが叫んだ。「謝罪しないのか。自分のしたことをどう思ってるんだ。こいつばかりじゃなく、お前は級の団結を踏みにじったんだぞ。皆がお前を怒ってるんだぞ」Hもそばからいった。「わざとああして、雑誌のことをばらして点数を稼いだんじゃあないのか」「――そうじゃない」Aが小さく呟いた。「そうじゃなくても同じだ。貴様は密告者だ。男の中でも一番汚ねえ奴だ。おい、男なら」とHはぼくにもいった。「お前も何かいえ」ぼくは困り果てていた。「よし」とGがいった。「今から制裁をはじめる」誰かが背後からぼくを小突いた。やれ、とGもいっていた。「貴様ァ」Hが大声を出して寄って来、ぼくの胸倉をとった。「この成行きをどうしてくれるんだ」ぼくは反射的に手を動かした。ペタンとAの頬が鳴った。Hはぼくを押しのけて一発をかませた。原石の上にAはたたきつけられた。Gがひきずりおこして又なぐりつけた。そばに居た者が次々に見習った。
 ぼくは謄写版をかかえて、ひっそりと家に戻った。
もちろん、HやGのやり方は配属将校と変わらないし、編集発行人という責任者であったはずの「ぼく」やKの意思をかわない彼らの行動に反感をもつものもわかるし、かといって、集団に囲まれ、それに反発しきれないのもまたわかる。だが、むしろ、この「ぼく」の弱さは、むしろ、「ぼく」の行動がすでに明かされてしまいつつあることの反動ではないかとさえ、思えなくもない。というのも、彼らは上の場面に先立って、「ぼく」らの雑誌の内容をこの小説の中で明らかにしてしまう存在なのだ。
 一人がやがて口をひらいた。「今度自宅謹慎が許されるらしいよ。誰かの父兄があれを見て東京都に行ったらしい」あれというのは雑誌のことで、寮に入れて就労時間を巧妙に延長させていること、中学生の入寮は本来違法であることなどを皆で合作した記事だった。「あの件以来、校長もいろんな方から突きあげを喰ってるらしいよ、喧嘩両成敗だな」という者もおり、「もっとジャンジャン書けばよかったな、ピンハネとか、饗応とかさ」という者も居た。ぼくはいちいち生返事をしていた。しかし、話しこみたくなかった。それでもこちらの用件を先に切りだした。「ボイラーの屋根の上に謄写版があるんだ。みつからないように持ってきてくれないか」誰かがうなずいて店を出ていった。
では、謄写版でも雑誌でもなく、この小説のタイトルになった穴とはなにか? いや、雑誌を作った「ぼく」ではなく、穴を掘る「父」とはだれか?
 おやじはあいかわらず穴掘りに熱中していた。昼間とろとろと眠って、夜掘った。泥をかきだすその鈍いひびきはまったくいやな音だった。いやでそのうえぼく自身が馬鹿げたことをしているような親近感があり、それがたまらなかった。そばにいるときばかりでなく、外を歩いているときも、夢の中でもその音は耳の底にあった。ぼくはいつもいらだっていた。そのくせときおり、暗い穴ぼこをのぞきこまずには居られなかった。故郷をのぞくように。ええい糞、という呻きがそこにあった。顔の皺まで泥の筋にした老人がそこに居た。いつだって、とぼくは思った、おやじはこうなんだ。ずっと昔、うす青い半紙をいっぱい並べて秋草のしげるこまかい模様を鉛筆で画いていた。小さい鋏を使ってそれを切りぬき、家じゅうのガラス窓へ一枚ずつ貼りつけていった。おどろいたことにどの模様も寸分の違いもなかった。それから煙草の空き箱だ。空箱を編んでいって大きな敷物を作りあげた。いくつ出来てもやめようとはしなかったが、それ等を板廊下に並べて敷いた。おやじがいった。「さァこれで足が冷たくないよ」それから写真の額縁。どの部屋の長押にも並んでいる古びた写真の(それは死んだ身内たちの写真だった)金属製の額縁を片はしから鑢で削って波模様をだしていった。おやじは烈しい眼つきをし、何週間かそれに没頭した。それから波模様のできた額縁に細い針金をひっかけてぎりぎりと巻きつけた。どの部屋の写真も針金でつながった。おやじは飾りの一種のつもりだったかもしれない。しかし眺めていると口の中が腐ってきそうだった。反動で、小さい頃のぼくはこう考えた。転げるように生きていって、そして死んじまうのが人生だ。実に無邪気にそう考えたものだ。転げるように生きていって、そして死んじまうのこそ人生だ。――軍人仲間だった老人がやってきて、おやじに輸送船志願をすすめたときも、それに近しい考えが頭をかすめた。実際、輸送船指揮官は老朽軍人にふさわしい仕事だった。行けば、おやじは死ねたのだ。ぼくは小さい頃の考えに戻ったわけではなかったけれど、やはり似たようなことを心の中で叫んだ。
 (転がりだせ、おやじ)
 (片をつけちまえ、おやじ)
モラトリアムとしか思えない「ぼく」がいうなら、滑稽にしか見えず、むしろ、自分にいっているように見えてくる。「父」とは「ぼく」にほかならないようにさえ、思えてくる。
それは、「ぼく」による「父」の理解だろうか? そうではない。「ぼく」は今でも穴の意味、父をわからずにいる。
 ――フウ公の奴がここで死んだ、とある夜おやじは、穴の中から不意に長押にかかった彼の末の妹の写真を指さした。ぼくは掘りかけの穴の通路に腰をおろしていた。肺病で五年も寝こむ前の富士子が、うす陽のあたる障子ぎわで大きな髷をうつむかせて坐っていた。蝋燭の灯のせいばかりでなく、もともとそれは影のうすい写真だった。にもかかわらず、ぼくが物心つく以前からじっと長押にとまって居、この先も(焼夷弾で燃えないかぎり)どこまでいっても部屋から消え失せない筈のものだった。おやじが中腰のままでいった。「この家で生まれたのはお前だけだが、死んだ者はいっぱい居る。誰かが死ななかった部屋は無い」その、自分より先に死んだ誰かの屍の臭いのようなものを、ぼくもたしかに嗅いでいた。家じゅうどこに行ってもその臭いはあった。ぼくは知っている死体をあれこれと思い描いた。トラックにはねられた小学校の級友や、工場の鉄塔から落下したぼくらの雑誌の仲間の朝鮮人労務者や、つい先日飽きるほど見た道ばたの無数の死体を。それから空想の中のおやじの死体を。レイテ湾の透明な水の底にねじ伏せられてしまったおやじを。しかしそれ等は単なる死体の臭いだった。穴の中の臭いとはたしかにちがっていた。誰も死んじゃいない、とぼくは思った。家の奴等ときたら、お幸さんをのぞいては、死のうと思った奴なんか、一人だって居やしないんだ。皆、じっと自分の生命を抱きこんでいて、何のために生きているのかわからなくなるくらい無限に生きちまうんだ。この、熟れた甘薯のようにほくほくしている泥の一粒一粒に、そいつ等の生命がしみこんでいるんだ。いつまでも――。ぼくは眼の前の泥に対して烈しい敵意が湧きあがってくることがあった。こいつ等を突き崩してめちゃめちゃにしてやりたい。身体が燃えた。子供用のスコップを、ぼくもふるった。すると、やっといくらか豊かな、いっそう惨めな気持になることができた。
泥にたいする敵意のなかで、それを突き崩すしたいと思い、スコップをふるうときに、「やっといくらか豊かな、いっそう惨めな気持」を抱くなら、「ええい糞」といいながら父の姿そのものではないか?
「ぼく」は、あいかわらずモラトリアムに、問題をつねに先送りしている。
 その頃になって中学校からの通知が突然舞いこんだ。赤羽在の特殊鋼を造る工場に配属されている生徒と合流するように、という簡単な文面と工場の所在地が記してあった。処分が解けたのかどうかそのことはまったく伏せられていた。十日ほどして再び通知が来た。文意が少しきつくなっていた。罹災していない限り工場に出向いてくること、理由なく応答ない場合退学処分にする。
 それは、応じなかった場合、どこにも所属していない人間として徴用令が来ても文句がいえないということだった。この二通の葉書で、ぼくははじめて、級友たちがもう卒業してしまい、方々の上級学校へ散らばっていってしまった頃だと気がついた。ぼくkは見知らぬ下級生たちの列の端に並ばされている何年生だか判然としない自分を想像した。それから、溶鉱炉のようなところからすべりでてくる焼けた鉄棒をかなり不器用に、しかしまあ大過なく、つまり反射的にさばいている自分を想像した。それらがあまりにたやすく想像できたため、さざ波のような淡い反応しかぼくに与えなかった。
 で、結局工場には出ていかなかった。警報が鳴った直後と朝夕の形ばかりの食事のときに少しざわつく以外、家の中は、以前ぼくが望んでいたような曖昧な静寂が満ちていた。誰もしゃべりあわなかったし視線を合わそうともしなかった。そしてぼく自身は終日長四畳に寝ころがって虫のようにじっとしていた。むろんそういう雰囲気を、自分を、ただもてあましていただけだ。ぼくが本当に餓えていたのは曖昧さや寛大さではなく、その逆のものだったから。ぼくは、これしかないという生き方を一生懸命考えた。例えば予科練にでも応募して戦場の只中に転げていってしまうことや、或いは、Kとかたらって例の雑誌ごっこをしゃにむに続行していくことなどを。もしその中のどれかひとつに心を決めることができたならばどんなにも身が軽くなったことだろう。自分の気持に不正直になり、又は正直になるだけで得心できるものならどんなによかったろう。結局のところぼくはそうしたまさぐりをあきらめて、もうすぐやってくるであろうたった一つの機会、他動的に自分が吹き飛ばされてしまう機会を待ち望むようになった。ぼくの身体の上には、お幸さんの丸い大きな顔があいあわらず笑っていた。彼女はセロ弾きになろうと心を固め、果たせなかったために自殺した。そういう明快な生き方が、何故ぼくにできないのか。
結局、「ぼく」のモラトリアムは他力本願になる。
それでは、動き続けている父にはなれないし、理解もできないだろう。そして、私たち(読者)は、戦争の終わりが近いことをしっている。

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