ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月31日

走れ(うえのそら初)

「走れ」は、奈良県桜井市に発行所を置く「カム」という文芸同人誌のvol.7の巻頭作になったうえのそら初さんの作品だ。

じつは、しばらく前に読んでいたのだけれど、時間を置いたのは、手許に本がなかったから。
面白く読んで、記事にしたいとずっと思っていた。


この小説の面白さは、なんといっても、タイトルのとおり、ひたすら走る「ボク」の、その運動のなかにいつづけること。
 さっき、玄関で「こんな遅くにどこに行くの? 誰かから呼ばれたの?」と母さんに言われた。
 けれど、ボクはそれを無視して、今、家の外にいる。コンクリートの道路のところどころに街灯や家の明かりが落ちていて、その上をボクは走っているのだ。春なのにまだ冷たい風を、頬に感じる。
この運動が、終始一貫して、この小説のなかにはある。
私たち(読者)は、まず、なぜ「ボク」は走っているのか? という謎にさらされている。「まず」とは書いたが、それこそがこの小説のすべてだと言ってしまってもよい。
どうやらそれは、カナと健太という名の友人にかかわるらしい。
畢竟、ボクは、その幼馴染カナと健太と過ごしてきた時間を回想することになるのだが、その流れは流麗だ。
 言葉が頭の中に浮かんで、その頭の後ろにむずがゆいような気持ち悪さを感じる。その感触は首を通って、肺や胃のあたりまで降りてきそうだ。
――放っておこうよ。カナと健太の勝手にすればいい。あんな電話、無視すればいい。なんでボクが付き合わなければ――
 感触と一緒に降りてくる言葉。ボクはそれに反論しようとする。だまれ、と口に出そうとして「だ……」、途中で詰まってしまった。
 喉の奥に丸い何かがあった。卵くらいの大きさで、もっと硬くて、冷たい何か。いや、そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない。なのに、こいつは時々ボクの中に現れるのだ。ボクは喉を右手で握りしめる。
親指と人差し指の間に当たるのは、喉仏。昔はなかったもの。
 その違いは、ボク自身の昔を思い出させる。ボクがもっと小さくて、カナや健太と一緒にいた時を。
周囲との違和感を感じるその触覚的な「感触」が、最近できた喉仏につながり、その自身の変化が変化以前へ意識を連れていくその連絡は、だけど、もちろんカナと健太とボクの記憶でもあるからに違いない。
さらに、読み終えてから、ここを見るならば、第二次性徴という自身の変化が、自身の変化ではなく、自分を取り巻く世界の変化としてとらえてしまうことで、周囲、世界と乖離した自分に、居場所を失ったカナと健太だったのだと、ボクはそれを「そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない」と気づいているボクなのだと、その差異に思い至る。
それだけではない。ボクが思い出すのは、カナと健太とボクがいつもかけっこをしていた記憶なのだ。
 ボクたちが一番よくした遊びは、「かけっこ」。
 かけっこといっても、ここからあそこまでと決めて競争するわけじゃない。一番前を走るものが自由に未知を決めて走る。 二番目と三番目が一番目を追う。一番目が抜かれるか、気が済んで立ち止まるかするまで、ずっと。それがボクたちのかけっこだ。
 ボクが一番前になることはめったにない。二人ともボクより背が高くて、足もずっと早かったから。
 ボクは、「かぁんちゃーん、けんちゃーん」叫びながら、二人の背中を追いかける。
 カナが先頭を走る時は、たいてい近所の公園、その周りを何度か回ったり、公園の中に入ったりする。だけれど、健太が先頭の時は、全然知らない場所に行くことが多かった。人の多い交差点やどこかの家のコンクリートを、越えたりして。
新しい道を行くうちに、ボクは二人から離れてしまう。健太の坊主頭が見えなくなり、カナが着ていた白い半袖シャツの背中も遠くなる。ボクは追いかけ続けようとするのだけれど、つまずいて転ぶ。そうでなければ、道を歩く人にぶつかる。立ち止まって、ひぃひぃ息を吐く。蝶や初めて見る店の看板、ガチャガチャの機械、そんなものたちに気をとられるそれで、健太もカナも見失ってしまう。
こうして、記憶の中でも、運動は持続される。私たち(読者)も、絶えず走り続けることになるのだ。

さて、では自分が変わることが世界の変化であり、その違和感に苛まれる存在はどうだったろうか? 健太の違和感には、母の死というきっかけがあった。対してカナの違和感はいかがだったろう? それが女性の変化と、それを見極められない男である「ボク」の認識力なのだったろうか? あるいは、性差というよりも、性差を意識しはじめてしまった「ボク」? そのあたりをもっと明確にしないと、カナの世界に対する違和感が、健太との相対性のゆえにも、曖昧すぎた気がする。
いや、「ボク」という語り手にとって明確にならないそれは、私たち(読者)にも明確になり得ない。そう、だれより「ボク」が、カナの異常に曖昧だったのだ。
そうした曖昧さは、じつは健太に対しても、感じていたはずだ。

これは難しい。
思春期の世界との違和感を描くように見えて、じつは、他者の変化に対する「ボク」の違和感だったのかもしれない。「ボク」は、カナのこと、そして健太のことを理解できない。その悔しさは、かけっこで彼らに追いつけずに泣いていた「ボク」の弱さでもあるだろう。
 ――馬鹿野郎、畜生、ごめん、ボクも連れてって。しなないで、ゆるさない、ばか、何考えてるんだ、どうして、説明しやがれ、くそ、待って、このおっ――

そう簡単ではない。
じつは、私たち(読者)は騙されたままだ。すくなくとも、私は騙されていた。
もしかしたら騙されたのは、単に私のお間抜けでしかないかもしれない。タイトルを見れば、それは明らかだったのだ、ともいえる。「ボク」は走ってなどいなかったのだ。
上に書き出した直前に下がある。
 そして、今、ボクは家の外に立っている。
 口の中では、まだ丸い何かが存在している。
 ボクは喉に人差し指と親指を突っ込む。指先が喉から垂れ下がった肉に触れる。イメージの中で、丸いものを掴み。指を一気に引き抜いた。
今、ようやく「ボク」は、ふたりのところへ向かって走り出そうとしている。

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