ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年1月29日

眠るなよスリーピイ(色川武大)

色川武大の「小さな部屋・明日泣く」を読みすすめている。言うまでもなく、面白いから読みすすめている。

2篇目の「眠るなよスリーピイ」は、いわば近未来SFの設定だ。SFと言えば、エンターテインメントだし、物語を見るなら、この小説はエンターテインメントだ。
だけど、「麻雀放浪記」をはじめとする阿佐田哲也の名まえでも有名な色川武大が、色川武大の名まえで書いた小説だ。エンターテインメントと純文学の違いを、作品を実際に書いてしっている色川武大が、純文学を、SFの設定に乗せて書いたのが「眠るなよスリーピイ」だ。そして、たしかに間違いなく、この小説は純文学だった。
たとえば、大江健三郎の「治療塔」や「治療塔惑星」、あるいは、安部公房の「人間そっくり」などが、そうであるように、SF作品だからと言って、エンターテインメントとはかぎらない。

いったいなにが、この小説を純文学たらしめているのだろう。
なにより、この小説が、「少年」の物語だということがある。すなわち、人間の話なのだ。
 我が家に駈けこむと、少年はすぐに湯殿の方に行った。洗濯器のモーターの音がかすかにしていたからだ。朝の光がいっぱいに射しこんでいる湯殿には、甘い、しかし清潔な匂いが満ちていた。白い湯槽も、緑のタイルも、どこも充分に輝いて居、そして洗濯器の向こうの母親の上半身だけが陽光のせいで黒っぽく見えた。「ママ――」と少年はやや昂ぶった声で云った。
これが書き出しだが、躍動的にはじまりながら、見れば、「少年」といい「母親」という。語り手は、それらの人物を俯瞰するように、距離を感じさせる。この呼び方は最後まで変わることなく、一貫している。
かたや、タイトルにある「スリーピイ」とは何かといえば、「眠るなよ」と語りかけられる存在であるとおり生き物、「少年」の飼う犬の名まえだ。人間たちにはついていない固有名が、犬にはあるのがこの小説なのだ。それは、途中に現れるスリーピイとおなじコリー犬の牝犬も同様で、コロと名づけられている。「少年」が、物語の途中に知り合う少女などもありながら、なお、その少女と名乗りあうこともなく、人間たちの名まえはあえて伏せられている。「少年」の両親までが、たとえば父親が腹をたててさえも、彼を「坊や」と呼んで、その名まえを書かない。
そのやり口はあたかも、この物語の主人公を、「少年」よりスリーピイにも見せかねないのではないだろうか? だが、スリーピイの存在感はきわめて希薄だ。
 スリーピイの運動は、つい最近まで、母親の郷里から手伝いに来ていた少女の役目であった。少女が郷里へ帰ってから、一応少年の役目になった。しかし少年も親たちもあまり熱心ではなかったので、放っておかれる日が多くなった。スリーピイも又、鎖でつながれて人間の身勝手に引き廻されるよりは、眠っている方を好んだ。実際この家は、塀と細い門柵によって道路とへだてられていたから、スリーピイはいつも中庭に放されていたせいもある。
眠りほうけるばかりのスリーピイだから、希薄なのだろうか? いや、それよりも、スリーピイを主体的に語るセンテンスが見えてこないのだ。
 少年は、自分が急にその役目に忠実になった理由を誰にも洩らしはしなかった。少年は母親にねだって自分専用の眼覚まし時計を買ってもらった。早起きは辛かった。しかし、辛いということを自覚しながらそれをやりとおす快さはまた格別のものだった。
スリーピイの活動は、少年にゆだねられている。少年のもとにしか、スリーピイは動かないのだ。いや、かならずしもそうではない。
 「さァ、君にいいものを見せてあげるよ」
 とほとんど毎朝のように少年はスリーピイに囁いた。そして鎖をしっかり握り、自分も今まで知らなかった世界に踏みこむような足どりで朝の道に出た。頭の中は、布団の中でさまざまに想像したように、泥の上に斃れて固くなっている犬たちの屍骸で埋まっていた。新しく建ち並びはじめた団地の横を通り、駅への一本道を小川のあたりまで来た。人っ子一人行き逢わなかった。少年は小川の両岸の草叢や疎林を眺めた。そこに、いかにも何かがありそうだった。で、一段と頬を紅潮させながら、慎重な足どりで岸の細道に入った。深い草の匂いや朝露のせいで濡れた空気を、少年も犬も胸いっぱいに吸いこんだ。犬の尻に草の実がいっぱいついた。
 スリーピイが突然少年を曳きずりだした。
 「スリーピイ!」と彼は烈しく叱咤した。「急いじゃいけない。僕と一緒に見に行くんだ」
 しかし鎖が指の間から勢いよく抜けた。少年は走らなかった。草の下の光景は充分にわかっているつもりだったし、がさつでなく、自分らしくそれと対処しようと考えたから。で、少年は細道に立ったままこう云った。
 「ね、スリーピイ、僕たちって凄いだろ。その気になれば、お前たちの仲間が何匹居たって、そんなふうにしてしまうことができるんだよ」
スリーピイは、主体的に動いている。それでも、物語を主体的に支配しない。物語に従属したりしない。スリーピイの主体性は、物語さえ無視する主体性なのだ。ただそのままに存在する、やけにリアリティを感じさせる在りようではないだろうか? だからこそ、物語のなかでは、彼の存在感は希薄になる。
そして逆に、物語そのものである「少年」が、小説の前面を占めるのだ。いや、前面を占めるとともに、どうしようもなく、物語に従属していくというべきかもしれない。物語に従属するほどに、彼は語られる存在になり、だが、語られるほどに、大人の理不尽と、自分自身の理不尽を露呈していく。まさに、人間が描かれる純文学の醍醐味にはまり込んでいく。

少年は、スリーピイをどうしたかったのか、彼自身にすらわからない。そして、それこそがリアルだ。

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