ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年4月2日

乾燥腕(鶴川健吉)

ひさしぶりに読了したのが、第110回文學界新人賞受賞作、鶴川健吉「乾燥腕」。
今さら感が強い、ちょっと古いネタなのだけれど、縁あってコピーが手に入ったので、読んだのだ。
まず、読みはじめて目を引くのは、その三人称の在り方だ。
 吐き気がした。嘔吐はしない。家が汚れる。と、後宮の腕に一匹の蠅がとまった。だあから言わんこっちゃなーんだよ。おめえはいつも同じ。なにやっても同じなんだよ。そんなこと知らないでよく生きてたな今まで。
最初のみっつのセンテンスは、主格が人間ではなく、それはあたかも誰かの独語のようでさえあるが、その後に後宮という、どうやら人間の名まえらしきものが表れる。だから最初のみっつのセンテンスは、およそ彼・後宮の独語だろうと、思いながら読み進めることになる。どうやら、後宮という人物に寄り添う三人称の語りのスタイルだろうと。ところが、その直後に、かぎ括弧こそ省かれているものの、どうも科白めいたセンテンスが表れる。さて、後宮はひとりではないのかな? いや、もうひとつの可能性がある。そう、蠅が語る可能性だ。
 蠅は二、三歩歩き、飛び、離れた。俺だったらとっくに死んでるよ。おい聞いてんのか。早くメシの支度しろよ。言う前にやれよ、猿。
上に続く段落だ。やはり、蠅が語っているらしい。だが、それなら、後宮の妄想、幻聴にも見える。それが、かぎ括弧を省かれているならなおのこと。
しかし、段落は同じまま、「おい聞いてんのか。早くメシの支度しろよ。言う前にやれよ、猿。」という、これもまた明らかに科白と思しきセンテンスだ。
 向かいの部屋ではまたけんかをしているみたいだ。おい、動けよ。返事しろくそ野郎。けんかじゃねえか、リストラされた旦那のストレス発散か。中肉中背夫の醜態か。などと考えているといつの間にか胃液が喉元まで来ていて後宮は慌てた。黄色の胃液が元気に騒いでいた。
この段落を見れば、ふたつ目の段落の後半の科白らしきセンテンスが、向かいの部屋の声であると察せられるが、「おい聞いてんのか」というセンテンスはどちらのものだろう?

このみっつの段落が、この小説を混沌に陥れる。だが、これだけを見るならば、あくまで後宮に寄り添った三人称に見えないこともない。そう、蠅の科白を後宮の幻聴ととらえれば、外から聞こえてくる声を受け入れながら世界を看取している後宮の内面世界とも見えるのだ。それは、例えば、みっつ目の段落の最初にある「向かいの部屋ではまたけんかをしているみたいだ」というセンテンスをみれば、その曖昧振りが、この語り手が自在に世界を見聞きするものではないことを表している。いや、「けんかじゃねえか、リストラされた旦那のストレス発散か。中肉中背夫の醜態か」というセンテンスが、明らかに後宮の独語であることから、「向かいの部屋では~」というセンテンスも同様だと思えて、やはりこの小説はおおむね後宮に寄り添う三人称であろうと思いながら読み進むことになる。
 うずくまってみたり、横になり耐えること一時間。その間寝返り数知れず。万年乾燥肌の後宮の尻は、この春の乾期によって蝕まれ、さらに寝返りではがれた白い粉が、カサカサの尻とピチピチの下衣の間に溜まっている。粉は寝返りを打つたびに舞う。畳の目から家ダニが顔を出して喜んでいた。
たとえ「畳の目から家ダニが顔を出して喜んでいた」と書かれていても、それもまた後宮の幻視のように読んだ。

ところが、こうした視点の転換は、この後第五章で、思い切った転換を見せる。下の部屋に住む老人渋谷に、語りが憑依するのだ。
 ふたつの、ただ開いているだけの目玉が、親指を眺めている。水気の、まったく存在しない親指。その親指に、指紋をまっすぐに切り裂き二センチほどの切り傷が居座っている。エフッ、としゃっくりをひとつした親指の持ち主渋谷は、薄い座布団を枕に毎日横たわるだけの自分をいつものように嫌悪している。数日前に割れた食器でこしらえた切り傷も、今ではつやつやした薄皮が全体を覆っていた。切り傷が少しずつ変化していく様子を眺めることは、渋谷にとって日々の楽しみになっていた。一人の老人にとっての日々の楽しみということはつまり、生きがいでもあった。
さて、このふたりが出会うことで、物語は動きはじめるのだが、それなら、語りはどこにあるだろう?
 二人はどちらかがお辞儀をすれば、相手の鼻をかすめるほどの距離で対峙している。渋谷のつむじからは、ぼんやりと油のにおいが漂っているような気がした。違う。これは自分の匂いか、と後宮は思ったが結局どちらでもいいと思った。本当ならば今ごろ部屋で靴下を脱ぎ、一息ついているはずだ。なのにいまはため息しか出ない。いや、ため息すらつけないこの老人との距離感が、後宮を圧迫し苛つきと疲労を加速させる。そして後宮は知らなかったが渋谷もこの状況を、決して楽しんではいなかった。それどころか退屈さえしていた。
概ね後宮に寄り添ったままだった語りが、「そして後宮は知らなかったが~」というセンテンスで、場面の見え方を一転して見せる。このセンテンスには、やられる。
それなら、蠅の科白も、家ダニの笑いも、後宮の異常が生み出した幻視幻聴ではなく、まさにこの世界の在りようではないだろうか? すくなくとも、語り手の世界ではないだろうか?
 目を開けると、後宮のちょうど真上、蛍光灯にガガンボがぶつかっている。何度も何度も、細長い胴体と、それ以上に細長い手足を動かし不恰好に飛んでいた。ガガンボは執拗に蛍光灯へつっこんでいく。光になにがあるんだ。光に。なにもねえ。熱いだけだろ。死ぬだけだ。いやに熱心だな。俺が電気を消したらどうするの。後宮はすくっと立ち上がると蛍光灯のヒモを引っ張った。目標を失ったガガンボが後宮の顔に張り付いたがはたかれるとあっけなく畳に落ちた。羽が一枚取れ、ひらひらと回転しながら落ちていく。畳の上、弱々しく動くガガンボをつまみ上げ顔を見た。グロテスクだ。黒い粒がふたつ、後宮をみていた。ガガンボは自分を摑んでいるこの生き物の顔を、汚らしいと思った。早く放ってほしかった。ひとつだけ残った羽を動かしてみた。後宮は懸命に動くガガンボをみすぼらしいと思った。ガガンボはいっそう力を込め羽を動かした。手足も動かした。足が二本取れた。なおも体全体で暴れた。
後宮を示す「俺」という一人称が表れる、すなわち自由間接話法さえ駆使する同じ段落の中で、ガガンボは、思ったのだ。だから、それを後宮はしらない。また、斜体にしたふたつの類似性はいかがか? 人間とガガンボに、違いはない。すくなくとも、後宮とガガンボは、同じように語られるものに過ぎない。
それでもなお、ガガンボの思考も、後宮の妄想かもしれない。それなら、下はどうだろう。
 水槽の中では一匹の金魚がのたうちまわっていた。金魚は自分の体の異変に激しく動揺していた。あれからだ、金魚は思った。あの大きな虫をのみこんでから体がおかしい。オレンジ色の体をくねらせ砂利にたたきつけると二、三枚の鱗があっけなくはがれ落ちた。鱗は濾過器の粗い網の中へ吸い込まれていく。乱れた呼吸を整えようとめいっぱい口を広げてみた。ゆっくり、ゆっくりと広げていったが動悸の高まりはいっこうにおさまらなかった。枯れた水草が尾びれにまとわりついてきて金魚は余計に落ち着きを失った。水面に口を突き出し、空気を思い切り吸い込んでみると少し気分がよくなった。この姿勢でいまを堪え忍び、一刻も早く便意の訪れることを願った。
後宮が与えるままにガガンボを食べた金魚の描写だが、この金魚の悶絶は、後宮が見ているわけではない。上に続く段落が下だ。
 この部屋で動揺しているもうひとつの存在。後宮は部屋に戻るとすぐに流しへ向かった。そこにある大きなゴミ袋を開くと細引きを押し込む。萎びたチリ紙群の奥深くへ細引きが埋もれていくと数匹の小バエがゆらゆらと飛び出した。後宮はゴミ袋をつかむとくちも結ばず玄関を飛び出した。階段の途中で、渋谷の残像が生々しく浮かんだ。息を止めゆらめく渋谷の体をつき破った。
あるいは、下の段落を見ればよい。
 目が横に並んでいるうごきの遅いこの生き物たちを見かけるたびに、熊鼠は小さな神経を震わせ怒りにうちひしがれていた。毎日おなじ時間帯に集団で移動し、不必要な布きれを体に貼り付け往来を闊歩する無神経な生き物。その顔がおびえゆがむさまを一度でいいから見たかった。いま目の前にいる生き物は特にうごきが遅い。こいつなら簡単におびえてくれそうだと熊鼠は内心喜んだ。熊鼠の視線が後宮のすねにあるすり傷を見つけた。と、同時に一目散に目標へ走った。水たまりを踏んだ。カタバミの花を踏んだ。景色がズンズンと後ろへ下がっていった。はじめて感じる胸の高まりに、気がつくと精一杯の鳴き声を上げていた。
だとすれば、向かいの部屋の中を想像するしかなかった、曖昧化せざるを得なかった語りとは、何なのだろう? いや、あれはきっと向かいの部屋の中を見ることはできない後宮の独語だったのだろう。
それなら、後宮が見ていない水槽の中や、あるいは渋谷の言動、いやいやそれより、昆虫たちの心理まで読み解く語り手は、やはり神のごとき存在だ、ということだろうか?

だが、この小説を新人賞とした選者たちは、この小説は神視点に対する批評性をまとっていると言う。それは、この汚辱に塗れた景色のゆえだろうか?
そうではない。たったひとつのセンテンスが、それを端的に表しているのだ。
 ジャージの袖、うようよとひしめいていたのは無数の毛玉だった。部屋であぐらをかいて後宮は、左手の親指と人差し指をたくみに操り、ひとつずつつまみとる。面倒くさそうな態度はなく、どことなく楽しんでいた。指を二本動かすだけで簡単になくなる毛玉。指先ではじめば、思っているより遠くへ飛ばぬのがしゃくにさわるが、それでm後宮は楽しんでいた。右腕の毛玉はなくなり、左腕もあらかた片づいた。ジャージを脱ぐと畳にひろげる。右をさすり、左をさすると指が滞らずに滑った。後宮は気分を良くし、ジャージを裏へ返してみた。なめらかな布地の存在を期待していた後宮の視線が、一面にひろがる毛玉の群がりをとらえた。緑色の布地の上、張りつく毛玉の生命力がみなぎり、後宮を圧倒した。汚いな、と後宮は思った。いままでよく見てこなかったがこれは汚い。こんなものをよくいままで身につけていたものだ。
斜体にしたセンテンスの曖昧ぶりはどうだろう? 後宮が「思った」ことを文章化していながら、態度から憶測するしかないようなセンテンス。後宮さえ、断言できない語り手の出現だ。
無生物に生命力を感じ取ってしまった後宮に、どんな生物にも憑依した語り手が戸惑い、口籠もってしまったようでさえある。

それ以前に、後宮は、藁人形という、あらゆる不快なものを退ける護符を手に入れている。彼は自分を不快にするもの、不快にしそうなものまで、空想の中で、藁人形越しに五寸釘を打ち込むことで、世界と接するすべを手にしている。だが、その藁人形は、水が滴るものだった。
 大きなクヌギの根元、強い湿り気を帯びた上質な腐葉土だった。もってきた軍手はすぐに泥水が染みわたり、意味をなさなくなった。作業を終え腰をブルンとまわすと腰骨が二カ所ポキと鳴った。樹を見上げると手の届く高さに藁人形があった。斜めに突き刺さっている五寸釘がさびに覆われている。足はほとんど原形をとどめておらず朽ちた藁が垂れ下がり風になびいている。遠くから聞こえてくるお囃子にあわせて踊っているかのように後宮は思い、藁人形にみとれた。人差し指で藁人形の胴を押してみると、ジュワと水分が染み出した。しばらくこの場所にたたずみ、小走りであとにした。リスが発動をはじめ小さな森がまた活発になった。
「乾燥腕」というタイトルで、乾燥肌の男が主人公でありながら、そこかしこに水分が溢れるこの小説である。水気が生命であり、乾燥しているものは、漂うものだ。ところが、よりによってジャージの毛玉に生命を感じ取ってしまうのが、後宮である。

だが、後宮は変わったのだろうか? たしかに変わった。出来事の中で、後宮は、当初の後宮ではなくなっている。だが、それは、おおよその予想に反して、渋谷との関わりの中で起きたのではない。藁人形を手に入れたことこそが、後宮を変えたのだ。その上、およそ、後宮の変化は、傍目にはわからないほどのものに過ぎない。
社会は後宮を助けもしないし、変えもしない。なんともやり切れないが、変わることはできる。自分が変わるなにかは、世界の中に存在する。それは人間社会ではなくても、生物の世界でもなくても、変わる契機は見つかった。だからといって、後宮の変化は・・・。

ところで、例えば、第三章を見てみると、いや、三章にかぎらず、文章を作ろうという意識がとても高いのだけど、力み過ぎたり、あるいは、比喩などが相対的に緩いために、際立って緩く感じてしまう部分は、まだまだ書き慣れない印象が否めない。

0 件のコメント:

コメントを投稿