ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年4月10日

四次元の断面(甲賀三郎)


職場の本棚に上の本を見つけて、思わず借りて、何篇か読んでしまった。
このモダン都市文学のシリーズは、以前「モダンガールの誘惑」と「都市の周縁」を古書市で見つけて我が家にあり、前のブログではずいぶんとネタにしたのだった。

例えば、佐藤春夫の「指紋」はすでに読んでいたが、最後まで読んでしまったし、江戸川乱歩の「目羅博士」は途中でやめて、北林透馬「支那人街(なんきんがい)の娼婦(おんな)」を最後まで読み、コラムも全部読んで、それから甲賀三郎の「四次元の断面」を読んだのだ。
ほかにも、読みたい小説がいくつかある。

ちなみに、北林透馬は、コラムは面白かった(連載の部分だけだったけど)のに、小説の「支那人街の娼婦」はつまらなかった。


甲賀三郎と言えば、江戸川乱歩と並んで、探偵小説の草分けとして名を馳せたひとだったはずだが、あえてそう書かなければ、日本の探偵小説の草分けと言えば江戸川乱歩が思い浮かぶ(いやいや黒岩涙香だろ、とも言えるけれど)ほどに、名を馳せているとは言い難い半分忘れられた存在かもしれない。
そもそも、伝説上の人物の名をペンネームにするなんて・・・。

そんな甲賀三郎の「四次元の断面」という小説を読んだのだが、社会性で言えば、この時代に冤罪を描いていることに、意外性を覚える。ちなみに、初出は「新青年」の昭和11年4月号だ。

だが、おそらく、その時代も私たちが思っているより、自由な発想が許されていたのだろう。
とはいえ、必ずしも冤罪を社会問題化するような小説ではない。むしろ、冤罪として釈放された男が、じつは真犯人だったと言う物語なのだし、冤罪によって長い拘留を見た主人公・川根安雄に、警官らは同情的だったりもして、むしろ、こうした、冤罪から解放される事件がすくなからず起きていたのかもしれない、冤罪が冤罪であることも露見しないまま処理されることなく、官憲の横暴がまかりとおっていたわけではないのかもしれない、と思わされるし、むしろ、冤罪として釈放されたものにたいする懐疑の目こそ、書き手に感じられる。

懐疑とはいっても、釈放された者たちをなべて疑えというわけではないだろう。むしろ、そうならざるを得なかった。それは、社会的な問題であるよりも、小説として、文章として、事象を明らかにする、その手法のなかに抱え込んだ問題であったように思える。
この小説は、まず供述調書の抜粋からはじまり、多様な視点と、多様な場所、そう、まさに神の視点で語られていて、それはあたかも、真実を語るための方法に見える。

だが、ここには、なぜか神のような絶対性が欠けている。どのように神ではないかといえば、時間については、なぜか頑なに不自由なのだ。私たちが生きる場所とおなじように、過去から未来へ、一方的に流れている。
過去に起きたこと(妻殺し)が問題化していれば、その場を語らざるを得ない。そのときの真実こそが、ここで語られるべきテーマなのだから、そこにいたる経緯も語らざるを得ない。そして、それらが語られているわけだが、そう、語られることでしか、過去にいかないのだ。彼らによって語られつつある時間は過去ではあっても、彼らが語りつつある時間は、あくまで事件後なのである。
もちろん、それこそが現実の在りようではある。だが、私たちは、私たちが聞き得ない、例えば安雄の独白を読んでいる。いわば、時間には融通をもたず、そして、決定的な瞬間を見損ねてしまった閻魔大王の視点だろうか?

さて、そうした多視点の犯罪小説と言えば、芥川龍之介の「藪の中」が思い出される。
「藪の中」でも、時間的制約は保持されていた。そして、どちらにも、その事件の真相を暴く探偵は存在していない。だが、「四次元の断面」と「藪の中」の決定的な違いは、「藪の中」が複数の語り手による一人称によっていたが、「四次元の断面」は、インタビュー記事のなかの語りという部分もあるが、概ね三人称で語られている点だ。
このとき、「藪の中」は、おそらくそれぞれが真実でありながら、視点の相違によって見え方が違う、真実の多様性を語りながら、「四次元の断面」はむしろ、多視点が「たったひとつの」真実を明らかにするという、いわば古典的な小説の全体化に依っているようにも見える。
しかし、それなら甲賀三郎は、あるいは、多視点を手に入れて語る語り手は、この小説の要が、定代の疑わしさの真相にあったならば、それを語る方策は定代に語らせればよいだけだ。

そうではない。
なぜなら、すでに定代は死んでいて、今語りつつある時間には、語り得ない。
探偵小説、推理小説の負った宿命的な狭苦しさが露呈した小説だったというだけかもしれない。そして、そうした狭苦しさを感じさせない探偵小説が、面白い探偵小説なのかな、とも。

その真実の見え方も、非常にわかりやすく、そこに、"女"なるものの真実とは奥深さとかわからなさとか、そんなものが垣間見えて、溜飲を下げるにいたったかといえば、そうはならなかったものだから、構造の問題に目がいってしまったようにも感じられる。
「四次元の断面」というなら、時間を跳躍しないと・・・。

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