ようこそ片隅へ・・・ ここは、文学の周縁と周辺を徘徊する場所。読書の記録と、文芸同人誌の編集雑記など。

2011年5月14日

追い求める男(J.コルタサル)

世界幻想文学大系〈第30巻〉秘密の武器」を読んでいるのだけど、全体的に面白いなかでも、「悪魔の涎」と「追い求める男」は面白くて、いや、「追い求める男」にいたっては、途中で涙がじんわり滲んだ、傑作だった。コルタサルといえば、「続いている部屋」に代表されるような、実験小説的なトリッキーなお話を連想しがちで、泣かされるなんて思っていなかった。

コルタサルの小説における時空は、エッシャーとか、あるいはウニカ・チュルンのように、歪み、どこかと繋がってしまうのだが、チュルンのようにとは書いたけれど、コルタサルのそれは、計算された、理知的な、まさにエッシャー的な歪みの印象があったのだけれど、「追い求める男」をみるとき、理知と感性の間で引き裂かれたふたりが、それぞれにその異世界を追い求めていて、それこそ、引き裂かれているのはコルタサル自身ではないかとさえ、思えてくる。
ジャズサキソフォン奏者のジョニーを語るジャズ評論家の「ぼく(ブルーノ)」だが、ジョニーが語るものを麻薬が見せる幻覚としか思えない「ぼく」は、だけど、ブルーノが語る時間の歪みを理知的に、言葉として、理解してしまう。それは、例えば、少年に相対性理論とはなにかと問われたアインシュタインが、「楽しい時間は短く感じて、退屈な時間は長く感じるだろ、それと同じだよ」と答えたという逸話を思い出させる。
いや、「ぼく」は理解すら不要だとでもいうように笑うだけだ。
だけど、そうして、「ぼく」が理知的に書いたり、あえて書かなかった場所が、ジョニーを追い詰めているのだし、ジョニーはもしかしたら、「ぼく」が答えを与えてくれるかもしれないと期待していたのかもしれない。

だが、「ぼく」が書いた本を罵ったジュニー、それはほんとうに起きたのだろうか? 追い求め、じつは、追い越してしまったのではないだろうか? それも、ふたりともに・・・。
空しくうつろな二週間が過ぎるだろう。山積した、仕事、新聞記事、あちこちへの訪問  目新しいニュースを追い求め、人の判断に従って動くだけの、借りものの人生を送っている人間、評論家の生活とはおよそそんなものだ。ある夜、ティカとベビー・レノックスとぼくの三人は、カフェ・ド・フロールですっかりご機嫌になって『アウト・オブ・ノーウェア』を口ずさみながら、ビリー・ティラーのピアノ・ソロはけっこう聞かせたね、といったことを話しているだろう。あのピアノ・ソロがことのほか気に入っているベビー・レノックスは、今サン・ジェルマン・デ・プレで流行の服を着ているが、実によく似合っている。そこにジョニーが現われる。ベビーは二十歳の娘らしくうっとりと見とれるだろう。ジョニーはそちらを見ているようだが、そのまま素通りしてひとり、別のテーブルに腰をかけるだろう。ひどく酔っているか眠ってでもいるようだ。ぼくはティカの手が膝の上に置かれるのを感じるだろう。「見てよ、あの人。昨夜、また喫ったのよ。ひょっとすると、今日の午後かも知れないわ。あの女よ……」
この語尾はなんだ? 「ぼく」は二週間後を想像し、それを語るようだ。こうした「だろう」という語尾をまとった文章が、しばらく、それも長く続いているのだ。「追い求める男」と題され、ジョニーにとって、時間が問題化していることが語られる小説のなかで、まるで、時間を追い越してしまったかのように・・・。
それなら、第二版では書き換えようとも考えさせられるジョニーの科白とは、ジョニーが追い求めながら届かなかった場所に、「ぼく」こそが行き着いていたということだろうか? 終わりに近く、ベビー・レノックスから届いた手紙のなかの「あなたにも想像できると思うけど」という文章を受けて、「ぼく」はわざわざ「ぼくにももちろん想像はつく」と書いている。それでも、「ぼく」は、第二版を改めていない。
ジョニーついて書いた本を、ジョニー自身に否定される未来を幻視した「ぼく」は、それを公の場で言われ権威が失墜するのを恐れる、なんとも情けない男であったことが、短篇というには長い小説の中で明らかになる。そのとき、悲しいのは、寂しいのは、誰より、ジョニーに違いない。

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